2012年12月19日水曜日

とにかく義務と責任だけで私は生きている

疲れた。


一向に上向かない中で、その恐ろしく鉛のような身体を、動かしながら成すべき事を成し、思春期や症状のバイオリズムの動きに応対し、私は自分を見つめている暇すらない毎日。

身体が休めと言って悲鳴を上げていても、私には休む暇もなく、寝込んでなど居られない。



毎日、突然飛び起きて目覚める。
すぐに睡眠薬を飲んで眠りたいくらいの疲労感。
起きてからすぐには行動できず、ベッドの上に多分3時間くらい座って居るだろう。
その間に、 『朝』 飲む薬を薬箱から出し、他の包薬を数えて用意して、やっと飲み終わるのが1時間以上経ってからだ。

前の晩からメモ用紙に明日やる事を書いてベッドサイドに置いておく。
そのキャンセル出来ない用事を片付けるのに、どれ程の気合と集中力が必要なのか。
やり終えた後は、もう腑抜け。


毎日、四六時中が腑抜けなのに、これ以上動けない。


本当に疲れた。
しかも今は師走。
今年中に済ませておかなければいけない、手配しておかなければいけない用事や予定が、誰にでも当たり前にある。
それをこなすのに、もう身体がやっと、まるで息切れ、肺気腫の喘息で本当の息切れ、筋肉が息切れ。
要するにバッテリー切れだ。


疲れた。
何もかもに疲れた。
どうしよう。
もうすぐクリスマスに、冬休みに、年末年始、お正月がやってくる。
いつも皮肉っていた冗談も言えるようなエネルギーがない。

クリスマスのことを、 「もうバカじゃないの!?クリスチャンでもないのにクリスマスやるなんて、日本人ってただお祭りしたいだけじゃん(笑)。うちは関係ないからね~」 と皮肉っていた。

バレンタイン・デーのことを、 「嗚呼もうまた日本人はバカだねぇ~。チョコレート屋の戦略にまんまと引っ掛かって儲けの種にされてるだけなのに~(笑)」 と皮肉。
ホワイト・デーのことも同じように言っていた。

初詣のことを、 「あ!罰当たりの集まり。クックック。お賽銭いっぱい積んだってあの世に逝く時に、それは何にも意味がないんだよなぁ。しかもお願いだけして御礼に行かないっていうお馬鹿さん。一番誰が儲かってるのか判ってるくせにさ~(笑)」 と嘲笑していた。

そんな事も全部、私は凡人で煩悩ならではの人間らしさで良いと思っている。
だから娘たちが小さい時に、バカバカしいと思いつつもサンタさんをやってあげていた。
次女がクリスマスの日に目覚めて、枕元にプレゼントが置いてあって、本当に体中で身体を震わせて、 『お姉ちゃーん!サンタさん来たんだ!プレゼントある!ある!』 と喜んでいた姿を今でも覚えている。

純粋な子供心の小さくて大きな夢。
やってあげて良かったと思った。
一日中、私に 『お母さん!サンタさん居るんだねー!来たよ!アタシいい子だったからなの?』 と言っていて、その度に 「そうだよ~お利口さんだったんだねぇ。良かったねー!」 と受け答えしてあげていた。



ただ、今でも娘たちの喜ぶ顔が見たいだけ。
何か当たり前のことをしてあげているに過ぎないことにも、 『わあ、お母さんありがとう!』 と言ってくれ、私は 「親だから当たり前なだけだよ、いいって~」 と俯きながら言う。

それも次第に叶わないと思う娘の寂しそうな顔を見たくない。
逆に、情けを掛けられれば掛けられるほど不甲斐なさを感じていく。
そういったことにも疲れてしまった。






思いに答えてやれない。
喧嘩する度に、私の不甲斐なかった昔の事を引き合いに出し、弱みに付け込んで来られる事が多くなった。
もう、やめて。
何も望まないで。
優しさも、助けも、何もしてくれなくていいから、痛ぶるようになじるのはやめて。

所詮、生まれて来なければ良かったとしか思えない私自身の人生なんだから、もう放っておいて。
一人でずっと、孤独と病気と誰にも頼らず、絶望の中でやっとここまで思えるようになったんだから、お願いだからそっとしておいて。
私は一人でも寂しくないから。

もうそう遠くない将来には消えてしまうんだから、静かにさせて。
喧嘩する度に、もう待たずして終わってもいいと追い詰められる。

明日は寝ていよう。
明日は何をしよう。
それだけ。

2012年12月13日木曜日

空と地上と

ぼーっと、空と同じ高さで空を眺める。
ぼーっと、空と同じ高さで自分を考える。


下をふと見下ろす。


そして、また、空と同じ高さの風景を見つめながら、考える。


その間、私に気付く人、私の後ろを通る人。
私は、ただ空と自分を見つめてた。



階段を登って行く時
階段を降りて行く時


何も変わらない。


写っている日付より、もっと前の夏に、初めて登った。
2011/04/13に、もう止めようと自分に決めて、忘れまいと写真を撮っておいた。



何処にも気持ちも身も置き所がなく、頭を冷やそうと先日行った。
あの時、自分は何を考えたのだろう。
あの時、何が自分を踏み止まらせたのだろう。
あの時、何を心に誓ったのだろう。

覚えている。
『生きるには理由は必要なく、死ぬには理由が必要だ』


もう力がなくて、登れなかった。
ただ、胸の高さまである塀に寄り掛かって、冷たい風に吹かれ、眺めていることしか出来なかった。
そこから落ちれば、何もかも終わる。
階段を降りれば、また何もかも相変わらず続く。
ぼーっと、その二つを考えていた。



引き返せば何が待っているのか。
引き返さなければ何が待っているのか。

私に聞こえた心の中の声、あの時聞こえた、その言葉
『やるべき事がまだ残っているから、お前はまだ生きていろ』
何が残されているのだろう。

死なないで。
私を必死で止める。
死なないで。

いくら止めても、生きてて欲しいと思っても、そんなにつらいなら、止める方が酷なんだと思った。
そんなに死にたければ、生きてるのが地獄なんだったら、死ねばいい。
何をどうやっても、何の役にも立たないのなら、もう何もしない。



抜け殻のような私。
生きる屍の私。
時間稼ぎをしてるだけの私。
それで時間潰しのように毎日、何か楽しいと思えるように、わざと楽しみを見つけて生きている私。

何のために・・・。


憂さ晴らしに、外へ勢いで出て行ける人はいいね。
帰ってきたくないと、家出できる人はいいね。
誰か気を紛らわしてくれる人と出かけられる人はいいね。
嫌だ、やりたくないと、放棄できる人はいいね。


私はもう何処へも行けない。
自分で死ぬ力すら、もうない。
このベッドの上から降りられないで、歩ける世界は家の中だけ。



痛みを取ってよ。
歩けるようにしてよ。
手が動くようにしてよ。
寝れば疲れがなくなるようにしてよ。

グズグズ言って、あれが嫌だ、これが嫌だ、持て余すそのエネルギーと身体を私に頂戴よ。
そうしたら、私は誰よりも頑張って生きるから。
誰よりも多くの仕事をするから。
やらなきゃいけないことも、やりたいことも、やってあげたいことも、どれだけでもやるから。
私と代わって・・・。

私が自殺した時


2006年10月25日 23:43 私は自殺した。

この写真は、退院してきた時に撮影したものだ。
一週間かけて、どうやって死ぬかずっと計画を練っていた。
誰にも気付かれず、他人にも知られずに確実に死ぬ方法を考えた。
心臓を刺すまでの記憶はある。どのような格好と方法で実行したのか覚えている。
けれど、刺した後からの記憶は一切無い。
どうやって救急隊が運んだか、どのような形で包丁が胸に刺さっていたのか、
また手術もどのような方法で行われ、何故こういう傷跡が残る結果になったのか、何も知らない。
一度は退院後、全経過を知りたいと担当医師に手紙で申し出たが守秘義務があるとの事で聞けなかった。
その後、もう生き返ってしまったのだから何も知る必要はないと思った。
もちろん、退院する時に今後の弊害や生活指導など一切のインフォームド・コンセントは受けていない。
それから既に、6年が経過している。
私はこの6年何を考え、何をしてきたのだろう。
考えてみれば、もう10年くらい経っているかのような心境だが、まだたった6年未満しか経っていない。
その間に、子供は2007年12月に退寮して戻ってきたのだから私は自分の肉体も精神も何のケアもしていない。
本当に、この6年(正確には5年4ヶ月)何も無かったかのような生活で、ただ請求される事や起こる事象に対して対応に追われるだけだった。
2008年12月29日に重症薬疹で、死ぬ寸前にまでなった。

私の精神力、忍耐力、気力を誰もが過信してはいないだろうか。
耐え切れないこのCFS、FMSの上にこんな出来事が加わり、2008年9月に中絶に見舞われ、私はその報いを一人で今も尚受けている。

いま考えるのは、既に2006年の自殺の時点で私は死んだも同じだという事だ。
あの時、その時、本当に死んでいたら、今の苦しみは無かった。
あれから、私に何か、かけがえのない喜びや生きている素晴しさを感じる出来事はあっただろうか。
残念ながら、俗世が口にしたり、思い描く、幸せも安定も、平和もなかった。
だから、私は人間らしさがなく、何事に対しても事務的で、すべてに於いて興冷めしているのだ。

誰かが嘆く、不平不満を言う、努力しない、他力本願的発想、人を羨んだり、自分の置かれた状況を有難いと思えない、そんな姿を見聞きする度、「それは平和だから言えるんだ」と感じるし、心底では「平和ボケ」と思っている。

『修羅場』?
簡単に口に出来るほど、貴方たちは修羅場なんか歩んでいない。
それは、そうやって自分を慰めて、過去の辛い体験を箱に終うための作業。そうしなければ耐え切れない思いがあるから、それも仕方ない。

死の淵を歩んだ人間にしか理解できないものがある。
それは命と引き換えにしなければならないような出来事に比べたら、すべてが戯言にしか見えなくなる。
何を切り捨ててでも、湧き上がる日常生活の不平不満は、いとも容易く乗り越えられる問題だと解かる。

私が自殺して、重症薬疹から生き返った、この5年4ヶ月で悟ったのは、そういう事だ。

『歩む道 誰が為でなく己の道
 右も左もすべて選ぶは 己なり』 2008年1月16日拝
『我抗うなかれ 世はすべて風の中
 空、無、気、意  然しの時と共に在り』 2008年10月12日拝
『究境涅槃三世諸仏依』

これが私の辿り着いた境地だ。
2012/03/05  9時0分

2012年12月6日木曜日

救急車で病院へ 公言できぬ事実に悩む医師と私

4日程前、いつものように突然の腹痛が4時間も続き、いつまで経っても痛みは治まらなかった。
痛みの波はあるものの、その激痛は変わらない。

娘が何か対処しようと、傷の癒着が原因で腹痛が起きているのかもしれないと、腹部を揉み解してみたり、背中を摩ってみたりしたが一向に治まる気配がなかった。

私が、 「多分、詰まってるとかじゃない。違う。」 と言って、 「いいから、どうにも出来ないから放っておいていいから」 と言った。
心配する娘は何度も 『救急車呼ぼうか?』、『ねえ病院行こう?』 と言ったが、拒否した。


しかし、いい加減4時間も過ぎて痛みにのた打ち回り、意識も朦朧として、言葉も出なくなってきた私を見かねて、救急車を呼んでくれた。
かかりつけの大学病院まで搬送された。

今回は流石に、病院側も血液検査や大腸検査、腹部X線検査をして、点滴を打っていた。
やはり血圧は78-42、脈拍60、体温37.8℃となっていた。
もう、左足はびっこを引いて、殆ど動かず歩けなくなっていたのは、この3ヶ月ずっとだ。

一応、意識ははっきりしているから、救急隊や医師の声掛けにも質問にも答えてはいたが、私の頭の中は大混乱していた。
ただ、質問された事に対し、的確な答えを探して答えていただけだ。
自分の痛みや、いつ頃、どうして、など伝えたい言葉は何も出てこなかった。


レントゲンの結果は、腹部に何も詰まっておらず、むしろガスが充満している状態だと言われた。
医師が首をかしげていたのは、ガスが充満しているのに腹の張りが一切なく、下痢もしておらず、腹膜炎や虫垂炎に特徴的な細菌も見つからなかった状態だ。
みぞおちの変なしこりを、 『これは何だ?』 と触診し、エコーをするも何かあると思い当たりつつ、それが何かは不明とだけ言っていた。

次第に痛みが治まり、点滴も終わりに差し掛かった処で、 『医師がとりあえず様子を見ましょう、家に帰っても、また痛みが起きたら何度でも救急で来て下さいね。』 と言うので、私は質問し返した。
「何度でも?痛む原因が何も解らないのに、来る意味はありますか?」 と聞くと、医師は 『痛み方が前回とは違うし、何が原因になるのかはその時で違いますから、万が一、一刻を争うような場合だったりしたら困るからね。解りますか?』 と言った。
私は、ああそうか・・・盲腸だったりしたら放っておいたら死んじゃうもんねぇと理解した。



血液検査の結果をもらい、説明され、一般検査で解ったことは栄養失調を起こしているだった。
ビタミンB12欠乏、グルタミン酸濃度低下、肝機能低下。
私は結果を聞かずとも解っている。

食べても食べても、栄養が吸収されず、どんどん痩せて行っているのと、もう既に 『一日一度の楽しみ』 はなく、食べたいと思っても食べられないし、食事は2日に一度か3日に一度、一食くらいしか摂れなくなっている。
たまに、食べなきゃと思って一食食べようにも、体力がなくて噛めない、消化できない、何より入っていかない。
別に拒食症でも摂取障害でも何でもない。

兎に角、食べても体重は減るか増えない状態だから、検査結果は当然のものだ。




さあ、ここまで来て私はどうなっているのだろう。
1日3回の常用になった強壮剤は、相当強いものであり、その薬剤単体では通常使用も処方もされないものだ。
それを服用しても体力は落ちるばかり。
体力をつける薬も出され、心不全改善薬も出され、全身の働きを維持するような意味の薬剤を処方されて、少しは楽だが起き上がれない、この身体。
要するに、虚弱体質の高齢者に対して使用するものを何種類か出されているが、追いついていないのが現状。

私にはそれが何を意味しているのか解っている。
もう、そろそろ来るべき時が来る。
薬疹で命取りになるから、痛み止めが使えない事なんか取るに足らない問題。
人間、食べられなくなって来たらお終い。
それが病気のせいであっても、加齢のせいであっても。

慢性疲労症候群の死因が、癌、心不全、自殺とあるように、私にこの内の何が原因になっているのか私は知っている。
憶測でも想像でも妄想でもない。
はっきり、一言 『知っている』 とだけ書いておこう。



先日Twitterで、交流のない人から 『命がけで育ててくれたお母様に感謝して、受け入れましょう』 と、リプライされ、私が 『上っ面の同情を掛けるな』 と返信した事で相手と相手方のフォロワーが、このブログのある一面だけを見て、自分たちのTL上で、私の事をこう言っていた。

『自分が一番大変と思っているだけ』
『辛いんですアピールをしたいだけで、死にたいツイしたんでしょ(笑)』
『患者同士と痛みや辛さを分かち合う気がない、自己中心人間』
『キリストが身を削って、差し出したパンすらにも小さいだの、汚いだのとケチを付けるようなものだ』
『わずかな差し出された助けの手をも振り払って、俺の言う事に口出しするなって言う奴だな』

と、散々影で言いたい放題、叩き合って居たが、そんなに事実が知りたいのか?
無残で無情で、非情な現実を見たいのか?
それは誰のためだ?

私が返答した文章はこれだ。
【@・・・・歯の浮くような一般論で慰めようなど上っ面の優しさはただの自己満足で。あなたが、誰かを励ますことによって、自分が救われたい、そして自分が『あなたのお陰で気持ちが楽になった』とお礼されることによって得る優越感があるから、親への感謝なんかで説得しようとする。】



『ある病名の末期状態』 これによって手の施しようがない状態になっている。
こう、表明したら何か納得するのか。
納得したら何か得るものはあるのか。
これが、何かの役に立つのか。
こんな状況にいま、私が置かれていると知って、誰か何か励ましたり、慰めたり、同じ病名の患者同士仲良くして情報交換して、私の現状は改善され、延命に希望が持てるのか。

自己紹介文にも書いてあるように、誰かの為に役に立てるように書いている訳ではない。
ただ、経過をできるだけ詳細に書き残す事で、いつか慢性疲労症候群患者の参考になる筈だ、もっと本当の目的を言うならば、自分の娘に 『遺伝性』 が指摘されている事で何年後かに、この私の経過資料が必ず役に立つ時が来ると思って、書いているのだ。


はっきり言いましょう。


  • 甘えるのをやめなさい。
  • 泣き言を言っている暇があるなら、身の回りのゴミのひとつでも拾う努力をしなさい。
  • どんなに動けなくても、つらくても、トイレに行った帰りに足元のゴミくらい拾って捨てなさい。
  • 精神科でもらう精神安定剤の量を最小限に減らして、憂鬱と向き合って戦いなさい。
  • 人々が当たり前にしている日常生活を送るように、当たり前のことを自分でやりなさい。
  • 人を宛てにして、頼るのをやめなさい。
  • 働こうとする意欲を 『うつになるから、症状がひどくなるから』 と病気のせいにして自分から捨てるのをやめなさい。
  • 患者会のシンポジウムに参加したり、準備に費やせる労力があるなら、自分のことを自分できちんとやりなさい。
    そんなエネルギーがあるなら、週に1回3時間でも、働こうと努力しなさい。
  • 障害者手帳の取得や、介護手帳の取得に頭をひねる暇があるなら、どうやったら自分で稼げるのか考える事に頭を使いなさい。
  • 患者会の会費を払えるなら、それを医療費に充てなさい。
  • 生活保護の条件に該当するのかどうか、病名を利用できるのかなどと、考えるのをやめなさい。
  • 自堕落に、病気を言い訳にして、自分を甘やかす事をやめなければ、何も改善されない。
  • 医者やカウンセラーに寄り掛かることばかり考えず、病気の資料や診断基準の知識ばかり頭に入れて自己暗示に掛けている事に気付かなければ、病状は思い通りに悪化するだけだと思い知りなさい。



『当たり前のことを当たり前にやる』
『自分のことを、自分できちんと出来る人になりなさい』

散々、努力してどんなに訓練しても、どうにもならなくなって、頼らざるを得なくなっても、最低限自分の事を自分でやる努力をし続けることを決して忘れてはいけない。
それが唯一、自分を助けることに繋がる。

『死ぬまでにやりたいことリスト』 を作れと医者に言われた時には、私は既にもう、やり終えた後だった。
その時の答えは、
『当たり前のことを当たり前にやれる人になりたい』 だった。


遺言公正証書を作らなければならないようになった経験のある患者の気持ちなど、誰にも解るまい。
未成年の子どもと、老い先が短く何重もの病気を背負って生きる親を残して、逝く私の気持ちなど解って欲しいなんて誰にも思わない。
私の娘たちは、私の死期を知っている。
もう既に、遺言書や死んだらどうするのか、私たちは何年も前から話し合っている。
これが本当の現実と向き合う生き方であり、娘たちは必要以上に私を過保護にしないし、臨機応変に歩ける時、歩けない時の対処をしてくれ、一緒に洋服を見立ててやったり、映画に行ったり、美術館に行ったり、ライヴに行ったり、学校の懇談会に行ったり、何でも行動している。
病気であれ、健康であれ、人はいずれ死ぬのだから、生きている内に何でもやる。


成すべき事を成せ

2012年12月1日土曜日

果てしない自分

この果てしないものは、いつまで続くのだろう。

体中を襲う、この痛み。
痛む場所によっては、もう切り落としてしまいたいくらいの痛み。
それが続くだけじゃない。
どんどん増していく一方。


どこまで耐えればいい?
いつまで耐えればいい?


苦痛はいつかは、時が経てば和らぎ、やがて消える筈なのに。


今まであったものが更にひどくなり、更に新しい痛みが襲う。
一体、何をどう耐えればいいのか、わからない。

例えるなら、歯医者で抜歯した後の激痛を痛み止めなしで耐えられるのか?
32本ある歯の1本づつ、麻酔なしでペンチで抜き、痛みが治まりかかるのを見計らっては、また抜かれるような、そんな痛みに耐えられるのだろうか。


身体を引き裂かれる思いを背負いながら、精神だけは正常・健全で居られるのだろうか。
それで日常生活の問題を解決し、また一難去って、また一難と次々に起こる問題。


私の身体の戦いは永遠に続き、この果てしない生活の問題や痛みはいつになれば終わるのだろう。
病気と共存しろと言われても、こんな拷問に耐えられない自分は、それでもただ、ただ我慢するしかない。
薬も使えず、誤魔化す事も出来ず、何も施しようがないこととしか共存出来ない。


もう、お願いだから終わらせて。
痛む箇所をナイフで刺したら、楽になれるかもしれない。
痛まない箇所はサーベルで貫かれるように痛む、この矛盾。
痛みを消すには、更に強い痛みで消せば楽になる。

果てしないこの何もかもを、いつ終わるともはっきり解らず、いつかは楽になる、いつかは終わると何の保障もなく、信じることは出来ない。
終わらない、果てしない私のこの人生は、夕凪に難破した幽霊船のようなものだ。



最後の魂の叫びを受け止めるかのように、毎日を生きている。
ただ、それだけだ。

自分の日記からNo.3


『I'm Fighter』


誰よりも真面目に素直に
生きようとすると
葛藤が多くなります。

それでも前を向いて一生懸命
毎日を思いっきり生きようとする。

もう少し、適当に
もう少し、いい加減に
なれたら
楽になれるかもしれない。

でも現実は、ずっとついてまわる。
どんなに誤魔化しても、逃げても
いつかはどうしようもない現実と
向き合わなくてはならなくなる。

それが私の病気。

なら、真っ直ぐに見つめて
勇気を持った方がずっとずっと楽だ。
どんなに苦しい葛藤があっても
誤魔化すより、得る事が多い。

だから私は決して諦めない。


2010/7/9

2012年11月26日月曜日

自分の日記からNo.2


『愛ある人生』



その想いをどれだけ与えられたかではない。
どれだけの人に、どれ程の愛を与えたかである。

人は愛を求めては不平不満を口にし、人生すらも与えてもらおうと
求めすぎる欲張りだ。
しかし、愛は自然とこちらが与えるともなく与え
そして、いつしか知らぬところで与えられているものだ。

そう、誰もが皆、生まれてきた理由を知らぬように
愛もまた、知らぬ間にやって来るものだ。

望むと望まざると生死と愛は、決して反比例しない。

意識的なものでは、決してないのだ。

上辺だけの感じ取れるような簡潔な愛も、また愛だ。
深々と感じるような愛を人は望みながらも、
一方で重荷に感じるような欲張りだ。


それでも、沢山の愛は人生を豊かにするであろう。

0:53 2010/06/06

自分の日記から


『そして』



あなたが思うほど、この世の中は素晴らしくはない。
あなたが考えるほど、この世の中は複雑ではない。

ただ少しだけ夢があるのかもしれない。
そんな期待をずっと小さな胸に抱きながら
そうして生きるのでしょう。

例えそれが、現実であれ無情な事実であれ
あなたは一筋の道を歩んでいる。
人生なんて思い悩むほど、重たくもなく、難しくもなく
ただ、ただ、ありのままにあるものだ。

思う存分悩めばいい。
思う存分泣けばいい。
そこから笑顔を見つければ、それでいい。

あなたが思うほど、あなたは捨てたものじゃないから。
いつか、きっと、ピーンと張り詰めた思いも
ゆったりとした時に変わると信じて。
今日もあなたは真っ直ぐに生きていく。
あなたらしく。

22:36 2010/07/09

2012年11月25日日曜日

もう何も要らない

何か欲しいかとか、

もう一度あの時に戻れるならとか、

生まれ変わったらとか、

そんなものない。

二度と生まれ変わりたくない。

何も要らない。

何も。

何も。

2012年11月24日土曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症について、はっきり言えること

慢性疲労症候群の確定診断が、容易くされないのは何故なのか、はっきり言えることがある。

それは、単なる 『疲れ』 や 『痛み』 のひどさではない。
病的な疲労感をどのように調べ、計測するのか?
やるべき事をだるさの中でも這いつくばってやり、やりたい事なんかはやっていられない程、すべてのエネルギーを仕事に費やさなければならない状態。
それでも、もはやこれまでと気持ちより何より先に、身体自身が動かなくなってしまう。
これが真実の 『病的な疲労感』 だ。

よく寝たきりでとか、起き上がれないほどのつらさと聞くが、病院に行けるか?
私は通院も度々キャンセルして、予約の取り直しをせざるを得ない。
その取り直した予約もまた、キャンセルして再予約することが多い。
そもそも、通院自体が最も優先しなければならない 『仕事』 であるのに、それすら出来ない。

やっとの思いで病院まで辿り着くが、病院の椅子で寝込んで、順番が来て呼ばれ診察室に入って医師と話す時には、経過と変化の報告をするのもやっとの思いだ。
沢山の慢性疲労症候群、線維筋痛症患者や膠原病の患者を見て来たが、その誰もが 『精気』 を失っている。
ぐったりとし、動かず、喋らず、おとなしく、ただ診察を待ち、終えれば、車椅子を押して貰っている人も自立歩行している人も、帰路の道のりを必死で考えているのがわかる。
この疾患の人の行動を表現するなら 『片道切符を握り締めているだけ』 だろう。
誰も晴れやかなほっとした表情などしていない。


故に、医師や世間などと戦う気力などある筈もない。
医師がどこを診ているのか?
それがこの身体的な 『精気』 があるかないかなのだ。
精神的な精気を失っているのは二次障害であって、だから反応性うつ病なのだ。


これだけの疲労感に襲われ、痛みに晒されれば、何も出来なくて当たり前だ。

  • 誰かと話す
  • 寝床から起き上がる
  • 飲食をする
  • 排泄をする
  • 入浴をする
  • 身支度を整える
  • 家事や身の回りの片づけをする
  • テレビを観る
  • ドアやふすま、カーテンの開け閉めが難しい

こういった当たり前の行動をすることすら、出来ない。
そこへ支払いのための外出、生活用品や食物の買い物、日常生活に最低限必要な行動も苦しい。
介護認定を受けても、そのヘルパーさんに指示する会話すら出来ないほど、何も出来ない。
私はそれが疲れるから、頼まない。
『ゴミが溜まって、風呂に入らないで死んだ人間は居ない』
昔、母の循環器内科の医師が言った言葉だ。

そう思うから、やれるようになるまで放って置く。
やれるようになったら、一週間掛けて洗物をする。
掃除を一箇所づつやる。
お風呂?そんなの一ヶ月に一回。洗髪だけ月に二回出来れば良い方だ。
それでも、出来るのだから、私は寝たきりだとは思っていない。



しかし医師に状態を話すと、それは寝たきりの状態なのだと言われる。
だから、はっきり病的疲労感とはどういう状態なのか理解出来るし、また確定診断を慎重に行う医師の姿勢も理解出来る。

それは精神症状が優先して疲労感や行動を制限されているのか、身体症状が優先して制限(強制)されているのか非常に重要な問題点だからである。

誰にでもある、憂鬱感はバイオリズムの幅はあって当然。
生活上の問題、家庭環境、職場環境、人間関係、様々な問題によって、簡単に人は憂鬱に捉われ、ストレスに晒される。
しかし、慢性疲労症候群に言えるのは、その様な事を患者本人が苦にしておらず、一言目から 『動けないつらさ』 を訴える処に無意識のストレス(無自覚なストレッサー)が隠されていることだ。


PS(パフォーマンス・ステータス)値の差にもよるだろうが、一貫しているのは、この 『動けないつらさ』 や 『やりたい、やれない、やらなきゃいけないのに、出来ない』 だ。
以前の記事に書いた、『慢性疲労症候群と線維筋痛症の症状の伝え方』 にあるように、ひどいインフルエンザ状態で何が出来るのか?
是非とも想像してみて欲しい。

確定診断を受けたとしても、365日ずっと起き上がれない訳ではない。
365日何も出来ない訳ではない。
いまの自分は、ひどいインフルエンザの日なのか?
いまの自分は、ひどいインフルエンザの罹り始めなのか?治り始めなのか?
必ず、インフルエンザは一週間以内に軽快して、出勤や登校出来るようになる。
その7日間のうち、2~4日目が一番ひどい時期なのは、誰にでも思い当たるだろう。
いまの自分は、何日目なのか?
自分を知るひとつの大変良い目安になるだろう。

この、ひどいインフルエンザの7日間の中で365日を生きる私だからこそ提言する。



自分を弱らせるのは簡単なこと。
本当に自分は、慢性疲労症候群なのか?線維筋痛症なのか?
本当にずっと車椅子がなければ移動できないのか?


更に問いたい。
もし、いま大震災が来て自分は逃げられないと確信しているか?
私は、逃げられないと確信している。でも、絶対に逃げるとも確信している。
守るべき命があるからだ。 

2012年11月22日木曜日

面白いお医者さん あれこれ

憂鬱な話題ばかり書いてきたので、ちょっと面白いお話をひとつご紹介。
人間、長く生きていると色々あって、私はどれぐらいの数の医師と出逢ってきたのか、もう数えられない。
私自身と母の出逢った人の数は、計り知れない人数になる。



  1. 自分が心臓を刺して入院した時の研修医の先生のこと。
    意識もしっかりしだし、会話も多少出来るようになっていた、ある朝、血中酸素濃度を測るため動脈血採取に担当医に同行してきた研修の学生さん。
    担当医が足の付け根から採取しようと注射器を片手に、
    『手袋して。はい、じゃあ抑えててね。』 と言ったら、何を勘違いしたのか先生の顔と私の顔をキョロキョロ見て、私の肩を両手で抑えた。
    私は心の中で 「おいおい、抑えるところ違うよ」 と思っていた。
    同時に担当医も同じ事を思っていたが、採血は技が必要なため黙って続行。
    そして、 『はい、良いって言うまでココ抑えててね。』 と言った。
    そうしたら学生さんも 『嗚呼そこ !?』 と言わんばかりに勘違いしたのに気付いた。

    話すのが面倒じゃなかったら言いたかったね。教えてあげたかったね。
    「もしもし?自殺未遂の患者だからと言って、誰も彼もが気が触れてしまってるんじゃないよ。事前にもう少し、患者情報見ておくなり、指導医にきちんと説明受けようね。」
    おもろい。笑い事ではないし、笑ってはいけないけど、おもろい。

    担当医も私も、ニヤっとしたのは一瞬の目配せだった。
    まあ、研修生も最初に変だなぁという表情をしたのは確かだった。

  2. 近所の耳鼻科の開業医の先生のこと。
    その病院は、この地域では珍しく 『医師取得免許のお面状』 をきちんと額縁に入れて掲げている。
    東京では、殆どの病院で当たり前のことだ。
    昔から、耳鼻科医と皮膚科医は何となく寡黙な変わり者が多い印象がある。
    もれなく、その先生も変わり者の様相で、言葉を話す、聞くより先に診察の手が動き出す。
    しかし、きっちりとこちらの経過を聞いている。
    作業をしながら、カルテに書きながら、私が 「なんか、凄く痛いって言ってて(娘が)」 と言うと、 『ああ、これは痛いよ!うん!」 と、へぇ~と納得させる言い方をする。
    でも、いきなり 『はい、あっち向いて』 と指示し、いきなり何の説明もせずにズボっと耳に消毒の棒を差してくるし、 『んじゃ、こっち』 と言って鼻にズボっとエアブラシのような器具で何かをする有様。
    ビックリするよ。怖いって。
    でも、その洞察力と観察力は、かなりのものを感じ、行けば必ず治る。

    私、この先生の腕、確かだわ!といつも思う。
    その決め手がこの一言。
    「皮膚にデキモノが出来てるし、扁桃腺かリンパ腺みたいな所が痛いから、皮膚科なのか内科なのか何処に行けば良いのか迷ったんですけど…耳・鼻・喉で耳鼻咽喉科なのかなと思って」
    と、聞いてみたら、

    『首から上の事は、耳鼻科で正しいんだよ。』

    なるほど。武道の一本!でしたね。

  3. 近所の不定期な診療日で開業している皮膚科の先生のこと。
    この先生、かなり年配。しかも笑顔ない。
    でも、奥さんが婦長さんと助手をしていて、無愛想な先生の代わりに笑顔で丁寧に処置をしながら、治療の説明をしてくれる。
    その間、患者から経緯や症状を先生は聞き取る。

    私が初めて自分で、 「もしやコレは薬疹という奴か?」 と疑って、思い当たる薬を中止して、症状がだいぶ良くなったが中々治らず行ったのが始まりだった。

    事情を説明して、これ以上治って行かなくて困ったから来たと伝えると、
    『うーん!偉い!お見事。』
    と、言って薬疹を特定するのは難しく、医者でも中々重症化しないと見つけられないんだよと話してくれた。
    言われた通り、塗り薬を塗ったら綺麗さっぱり完治しました。
    そこは、先生お手製の配合した塗り薬と、ガーゼに貼付してサランラップで巻いた湿布状の患部に切り張りするものを処方する、面白いお医者さん。
    しかも偏屈そうな先生は、義務教育までの子どもには診察が終わると、机の引き出しから駄菓子を何種類か 『はい、コレあげる』 と言ってご褒美をくれるんですねぇ~♪

    お陰で、地域の頼りになる先生として診察日は大勢の老若男女で、一時間待ちなので、皆さんかって知ったる台所で、ノートに順番予約の名前だけ書いて受付に一言言ってどっか行っちゃいます。

    ※ちなみに先生のこと調べたら、昭和44年に発表した印刷不可能な専門的な論文の数々が出てきました。すごいわ。どうりで熟知してるってわけか、と納得でした。

    もっと、こう云った開業医が居たら良いのに。昔は居たのにと残念な思い。

この 『面白いお医者さん あれこれ』 はシリーズで少し書いてみようと思っています。
宜しかったら、読んで見て下さい。

2012年11月21日水曜日

定期通院に行って解ったこと

『何かあった時の備えとして』 通院している病院は、概ね3ヶ月おきの予約通院だ。

そして行って来ました。
嫌々ながら、ぼーっとしながら、行って来た。


前回受診時の電子カルテを見ながら、皮膚科のことを尋ねられた。
私は今までになく、物凄く不機嫌な態度と言葉で、話にならないと言い、携帯に撮影しておいた写真を見せた。

「これの、どこがカブレなんですかぁ?」
「明らかに薬を飲み始めたら始まって、いつも起こす薬疹と同じ症状だったんですよ」

『で、皮膚科の先生は何だって言ってたの?』
と、聞かれたので答えた。

「発端や経緯を幾ら説明しても、全然取り合わなかったですよ。その医師は、これで3回目ですから、言っても無駄ですね。」

すると 『血液検査とか皮膚生検やパッチテストはしなかったの?』 と聞かれ、
「全然。初めからやる気ないですもん。前もそうやって薬疹を見落として、他の医師が断定しましたし、これ出しとくから塗ってと言って、沢山処方されただけです。」

写真を見て、 『んー、かぶれの状態ではあるねぇ。』 と言うので、

「いや、でも明らかでしょ。今こうやって治ってるのは飲むのを止めたからですよ?塗り薬なんか一回も塗ってませんから。」
「しかも、前に薬疹を起こした時の残りを見たら、全部2週間掛けて頓服で10回飲んで残ってましたし、飲み始めて出て、中止したら消えたんですから間違いないでしょ。」

かなり、そこの病院の皮膚科は藪医者だと言わんばかりに不貞腐れた態度と会話をした。
そして主治医は何て言ってたのか?と言われ、
「同じ仕組みの薬だし、作用する場所が似てるから薬疹だねと言ってました。」 と答えた。

担当医は、 『それから、まだ痛みが続いてるけど、もういいやって事かな?』 と言うので、
「はい、打つ手がない、聞く耳もないんですから、どうしようもないなぁって我慢してるだけです。」
と、答えた。


そして、ようやく本題の診察。
今、飲み続けてる薬はどうかと聞かれ、頓服で出されたものは結局効き目が1時間ぐらいしかないと話すと、量を増やしてやってみようという話になった。
もう一人の医師と相談している内容が聞こえたので、

「先生、薬局でしか売ってないんですが、アリナミンVVってあるんです。Vは安くてただのドリンク剤なんですが、VVは倍の値段して、今日はどうしても学校やら役所やら行かなきゃいけないって云う時に私飲んでたんですよ。それは一日1本しか飲んじゃダメなんです、その代わり身体が、ぐぅーっと持ち上がるように動けるんです。」

そっか!と言って、 『これは対処療法になるんかねぇ?』 ともう一人の医師に確認し、 『そうですね、対処療法です。』 と言われていた。

それで解った。
私は一応治療を受けていたんだ、と。
しかし治療内容は、緩和ケアなのも解った。


残念ながら、慢性疲労症候群、線維筋痛症とは別の病気の緩和ケアだった。
やっぱりね。
説明された。

『その病気に対しての治療や薬を使うと、あなたの身体の症状がもっと耐えられなくなって、悪化するから出来ない。』
やっと、きっぱり話してくれたかと思った。



16年前に肩を脱臼してから何回も繰り返し、完全に後ろに外れて救急で整形外科に行った時に聞いてみたことがある。
人工関節置き換え術はどうですか?と。
すると、 『その手術にあなたの身体は耐えられないし、リハビリがもっと耐えられない。その上、今の病気を悪化させるだけだから、外れたら痛いけど、こうやって何回でもはめている方がよっぽど幸せな生活が送れるからね。』 そう言われたことがあった。

なるほど。
今日ほど、自分の面白くない思いをはっきり言った日はない。
今日ほど、そんな正直な自分の感情に従った態度をしたことはない。
それが功を奏した訳だ。


でも妙な事に、先日の長女の一件を話してて、 「診断名も病名もどっちでもいい」 と言ったら、担当医は 『いやいや!!!診断名は大事だよ!』 と言い、 「アスペルガーもCFSもFMSも同じ様な処の脳の働きが悪いんですよね?だから診断名は大事なんですか?」 と聞き返しつつ言うと、
おっと・・・担当医が違う事を言ったのだ。
『何言ってるの、全然違う違う!』 ですと。
あれ?じゃあ、誰の言ってる事が正しいの?

「先生、あっちではアスペルガーは似たような部分が悪いって言ってて、娘はCFS、FMSじゃないって言ってますよ?私には解りませんねぇ?」
「じゃあ、熊大で診断されたのは間違いですか?それは誤診で何だったんですか?誰が本当のこと言ってるんですか?」
と聞けば、答えあぐねていた。

そして、 『娘さんによく病気のこと話してあげて、ね。』 と頼まれた。
何だ?それ。
私がベテランだとでも?
そんな事はどっちでもいい。
先生の言いたい事、頼みたい事、解りますよ。
先生も伊達に教授じゃないですし、私もそれなりの長い経験を持っていますからね。


帰宅して、娘たちと夕食を食べながら話した。

要は、昔は薬局行って、ビオフェルミンと正露丸買ってきて、後はオロナインでも塗っときゃ良かったんだよ。
あとイソジンガーグルね。
それで何とかみんなやってきてたんだけど、こりゃどうも医者に行って治して貰わないとダメだなって思ってから行ったわけさ。
それが今じゃ、温暖化や新型インフルエンザなんて気候や菌があまりにも変わりすぎちゃったから、人間が自然について行けないんじゃん。
で、精神的にも弱っちゃったから、自分で治そうとかしないで、すぐ何処でも医者に掛かるでしょ?
そうやって、病名付けて貰って、薬出して貰って安心してるんだよね。

本当は診断名が付くような病気ってそうは起きないのが、普通でしょ。
お母さんみたいに、病名すらなかった時代は、結局何だかんだ誤魔化しながら、やり過ごすしかなかったもんね。

まあ、そういう事だわ。
いつも言ってるように、メンタル、メンタルって五月蝿いんだよね。
すぐ病院行って薬貰って、 『私は何々だから~』 とか病名とか診断名言っちゃって、言えるのは病気じゃないって。
実際の病気の人は、そんな事を言う前に 『ちょっと、この辺が調子悪くてね』 くらいしか他人に言わないって。
お母さんなんか、未だに自分の病気のこと、どんだけ勉強しても結局自分で解んないもん。
「え?そうなんですか?」 ばっかじゃん。

ま、そう考えれば毎日あの大学病院に何人も患者が溢れてるのは、やっぱ変だよ。
だってさ、化粧してるは、シャキシャキ歩いてるは、さっさかお喋りしながら帰るわって姿おかしいじゃん?
大学病院って、前も言ったけど重病人しか来ない所なんじゃないの?
あとは町医者で間に合う話じゃないの?そうじゃなかったら、よっぽど病人だらけって事だとしか思えないね。




これが当たり前だと思う私は、時代錯誤だろうか。
人間の自然治癒力をダメにしているのは、合成剤と自分自身だ。
歯医者に喜んでみんな行きたがらないでしょ?
なのに、何で他の事なら 『診てくれ、診てくれ』 って行くのかなぁ。
私なんか行きたくありません。
医療従事者には成りたかったけど、患者には成りたくないです。絶対に。

緩和ケア・・・ねぇ。
なるほどでした。
喧嘩した甲斐があったかな?
だって、次回も私は予約されたんだから、病気なんだ。
自分で麻薬パッチ手に入れる方法を考えた事もあった。
シリンジや静注射液買おうともした。

でも、やらなくて良かった。
そんな通院日だった。


2012年11月20日火曜日

軽快もせず、未だ続く腹痛 慢性疲労症候群、線維筋痛症の通院の意味

2~3日おきにまだ腹痛の激痛は続く。
先日、通院先の診察の待ち時間にも襲ってきた。

痛みの限界を超えると、無意識に大粒の涙が溢れてくるのはずっと前からあったことだ。
耐え切れず、婦長さんに頼んでベッドで寝かせて貰ったが唯堪えて診察を待つより手立てがない。
診察を一番最後にしてもらい、主治医に状態を説明すると言われた。
激痛を抑えるには 『トラムセットしかない』 でも薬疹を起こすから使えないし、しかも海外では 『トラマドール』 単体で処方できるのに日本では 『癌』 だけしか認証されていない。と。
その通り、何度も頼んでいるが、アセトアミノフェンなんか、唯の解熱しか出来ないのだから、トラマドール単体を出して欲しい。それさえあれば、効果はいいのだから。


麻薬パッチは、 『癌』 に限られている。
本当は慢性疲労症候群も線維筋痛症も、苦痛を取り除くには適した薬剤だと私は思う。
一般的な鎮痛剤では効果は何もなく、精神科で処方される安定剤や鎮静剤は脳神経の働きを誤魔化しているに過ぎない。
所謂、似せ薬、プラセボ効果でしかない。

それが証拠に、不思議な事にノイロトロピンは長く飲み続けなければ効果は得られないが、鈍痛には穏やかな効き目を実感する。
こんな私は、ちょっとやそっとの痛みには慣れている。
大怪我をしても、堪えられる。
しかし、どうにもこの鈍く、筋肉の組織をまるで鷲掴みにされ捻られているような痛みだけは抵抗できない。

よく聞く線維筋痛症の 『髪の毛や風が吹いただけでピリピリするような』 や 『身体の内側からガラスの破片が突き刺してくるような』 そう云った痛みは私はない。
あるのは、 『洋服による締め付けによる圧迫の激痛』 や 『身体の内側から筋肉の束を掴まれてツーっと引きつるような痛み』 、 『神経の一本を引き抜かれ、切られんばかりに走る激痛』 だ。

お陰で何年も前からだが、左足の動脈血を採取する場所辺りから痛みが走り、足の動きが悪く引きずって、びっこ(差別用語ですが表現法が解りません)を引いている。
診察室に入る時に 「こんにちは」 と言って入ると、医師が毎回私の足を見ている。
『ありゃぁ、まだ良くないねぇ』 と言われて、 「ん?そうですか?」 と私には自覚がない。
娘にも私が歩く後姿を見て、 『お母さん、左足が曲がってるよ』 と言われ、 「ああ、そうかなぁ」 と言われて初めて 「そうなのか」 と思うだけだ。
自覚してるのは、動きの悪さではなく、痛みだ。
痛いから動きがおかしいのか、動きの悪さの原因が何なのか私には解らない。



明日、通院予約日だが、行って何を話すのか思いつかない。
どこが、どのように、おかしい。と、どう説明しようが何も解決しようとしない、検査もしない、ただ実験(臨床)のためだけに話を聞くだけの医者に何を訴えればいいのだろう?
以前から 『手の施しようがない』 と言い、腹痛で救急で行っても6時間以上何も施さない医者に行って何の意味があるのだろう。

バカバカしい。
それしか思いつかない。
行きたくない。話したくない。話すことがない。
誤魔化してくれる薬を貰うために莫大な医療費と臨床観察を提供しに行くだけ。



嗚呼、無意味な通院。
目の前にある問題に対し、効果的な対策をしようとしない 『専門医』 と銘打つお医者様のお伺いを、まるで製薬会社の営業マンのように立てに行くだけ。

一体、私は何なんだ。
知ってるよ。
あんたはね、ただの実験ネズミだよ。

しなくても良い手術をこの時とばかりに施されたでしょ。まるで切腹したみたいな傷があるでしょうが。
無断で標本の為に撮影された写真を見ず知らずの医者に売買されたでしょ。
それが遠く離れた病院のホームページ上に掲載されているでしょうが。
そして、電子カルテに入力された 誰が書いたのか知らない手書きの紹介状に 『うつ病』 ってあるでしょ。
全科にお達しがされているのも解っているでしょ。
『この患者が救急で来た場合には、様子を見て患者本人が落ち着いて自分から帰ると言うまで、そっとしておけ。何か見つけたり、疑わしいものを見つけても検査するな』 ってね。




ああ、嫌だ。
その医者は医学雑誌の特集 『慢性疲労症候群』 に、患者は経済的状況から病気である事を離れたがらない。その証拠に検査群の1%にしか慢性疲労症候群特有の倦怠感が見られなかった。主観的ではあるが、立証し得る症候は殆どの患者に見当たらず、うつ状態は確認出来たケースの方が優位であった。疲労を主訴に来院される患者の生活や家庭環境の背景に問題があり、経済的状況が大きな問題として患者の中にある。そのような結果から、頑ななまでに通院を希望されるケースが後を絶たない。
そう書いた本人だ。


医者の見解なんか読むものじゃない。
誠意を持って、診察に当ってくれているなどと信じてはいけない。
受診する医師の人間性をよく見て、こちらも相手の社会的立場や考え方をよく観察し、会話を通してお互いの共同体制が図れる医師を選ばなければならない。
『専門医』 の名に踊らされ、あしらわれていることを念頭に置きながら、向き合うしか方法はない。

言いたい放題、こうして医者叩きの内容を書くのは、打てる手をわざと打たないからだ。
先日の薬疹の紅斑を 『かぶれたんだね』 と言うような馬鹿は、医者ではない。
その医師2人は3回も薬疹を見落とした。







ああ、もう嫌だ。
消化器内科で検査しなかったのは、膵臓だ。最後まで 『がん』 を疑って検査しようとしていたのに途中で結論を出した。
血液検査受けてない。やったのは動脈血採取の血中酸素量の検査だけなのだから、何も見つけられる訳ない。

2012年11月8日木曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症と膵臓の症状

医者が私の事を 『慢性疲労症候群と線維筋痛症に拘っている』 と皆言う。
拘っているのではなく、22年前に確かな思い当たる節があって、散々診察を受けた結果、今の主治医を探し当て、入院精査を受けた結果、どの病気を疑っても辿り着くものが慢性疲労症候群と線維筋痛症しかないだけだ。


過去の記事で 『慢性疲労症候群と線維筋痛症患者の結末』 と書いたものに、私の辿っている経過を書いた。

私は、昨年(2011年)の12月から変な腹痛を起こしている。
度々、突然の激痛に襲われて、ひどくなりだしたのが今年(2012年)の2月ごろだ。
その症状は、
・突然始まる腹部の激痛
・みぞおちから左肋骨深くにかけての腹痛
・背部痛
・あまりの痛さに、身体を丸めてのた打ち回る状態
・左側を下にうずくまる

これが何なのかインターネット、家にある家庭の医学の本で調べた。
結果、 『急性膵炎、慢性膵炎、膵臓癌』 の症状だった。
何度も、検索語を 激しい腹痛 左側 背部痛 と入れて調べたが、やはりどうやってもヒットする病状は、膵臓に関するものばかり。
その中に、胆石や胆嚢と出てくるのだが、私は12年くらい前に、 『胆嚢ポリープ、胆石』 とかかりつけ医に言われ治療を受けた事がある。


結局、いま通院している大学病院の消化器科で腹部CT、X線レントゲン、胃カメラ、血液検査を受けたが、 『胃潰瘍および十二指腸潰瘍の活動期』 と言われ、胃薬を2週間分出されて治療は終わった。
それからも何度となく、この変な同じ激痛を起こしているのだが、特に拒食症になったわけでも、食生活が変わったわけでもないが、どんどん体重が落ちていっている。
元々、食べると疲れることもあって、 「一日一回の楽しみ」 とか言って、娘たちと食べる夕食くらいしか食べていなかったし、食べる量も小学生の子ども分くらいしか食べられなくなっていた。
それでも、体重はそれほど激減せず、いままで55~9kgくらいは維持していた。

それが、この腹痛を期に1ヶ月、1週間のペースで9㎏落ち、いま50kgになった。
体重だけを見れば、そんなに痩せてないように誰もが思うだろう。
私の身長は、以前158cmあったが、今は156cmと2cm縮んだ。
こんな状態になる前、小学6年生までは、痩せの大食いでとてもスリムだったのが体調が可笑しくなってから、一気に70kg近くまで太った学生時代のデブライフだったのだ。
高校に行ってから、バレボール部に入り運動をしたお陰で、一学期で64kgまで痩せた。

しかし、それからどんなに運動をしても60kgを切ることはなかったのに、30歳を過ぎた頃から一ヶ月単位で、10kgの痩せとリバウンドを何度も繰り返す、ストレス太りと痩せに戻ることが何度かあった。
お洒落が大好きな私は、若き頃につるしの服でサイズがないために苦労した。
お陰で、今では痩せた時のサイズから太った時のサイズまで、選り取り見取りある。
それでも最高で痩せた体重は、52kgだったのが、成人して初めて目にしたのが50kgだ。


あの重症薬疹のステロイド療法の時ですら、妊娠の時ですら69~72㎏にしかならなかったのに。

一気に3ヶ月で8kg痩せていき、今は一ヶ月で1kgづつ落ちていく。
この一ヶ月は、娘の事もあって動く事が多く、身体がエネルギーを欲するのか、一日に3食食べることもあるのに、増えない。
カロリー計算をすると、基礎代謝量以下しか摂取していない。


突然起こる腹痛の特徴は、夕食を終えて2~3時間後あるいは食べていなくても、大体夜、娘とテレビを見たり団欒している時に突然襲われる。
その痛み方は、 『まるで、いきなり刀でズバッと一気にみぞおちから左の背中目掛けて、貫かれたような状態』 これが特徴で、毎回同じパターンなのだ。
それを、医者にいくら説明しても理解されない。
翌日は、左の肩甲骨部分と左腕がだるく、痛い。全身がすごくだるく、動けない、起き上がれない。


変でしょうが。
胃薬(タガメット)を一日2回飲んで、心臓の働きを助けるためにアデホスコーワ(胃薬でもある)を1日3回飲んでるのに、何で胃が痛むの?
それで前に救急で行った時に出されたガスターを頓服で自分で飲んで、何とか痛みが治まる状態って可笑しいでしょう。
みぞおちの所に、触って解るしこりがあって(2cmくらい)、医者に押されて 「ああー!」 って痛がって、 「これ何ですか?」 と聞いたら、 『んー、そこは太い動脈が通ってるからねぇ』 って説明変でしょ。
だって、どんなに太い動脈でも、押されて痛い訳がないし、2cmくらいの太さある訳がないでしょうが。

どう調べても、胃潰瘍でも十二指腸潰瘍でもなく、膵臓しか出てこない。
長女が、調べてくれてわかったこと。
『十二指腸の出口に胆嚢からの管が通っていて、胆汁が出て普通は流れるのに、そこに胆汁が通れなくなって溜まったのがしこりになると、激しい痛みが起きる状態。慢性膵炎を繰り返した結果』
だ、そうだ。


だから、言ってるでしょ。
どうして慢性疲労症候群の死因に、癌、心不全、自殺って書いてあるの?って。
何で癌が死亡原因だと解ったの?
何で心不全が死亡原因だと解ったの?
WHOが発表している診断基準と死因なのに、どうして日本の医者は調べようとしないの?

別に慢性疲労症候群や線維筋痛症だからって病名なんか度外視して、いま起きている異変を調べてよ。
明らかに膵臓に何らかの異常があるって解っているんだから、調べてよ。せめて疑って調べて、消去法で、 『違う』 ことくらい証明出来るでしょ。
それを何もせずに、CFSだから、FMSだからで片付けないで欲しい。



私は、あと何回こんな激痛を味わって行けばいいのだろう。
あと、どれくらい痩せていけば医者が 『うわ!これは異常だ』 と感じてくれるのだろう。
黙って、厄介な患者扱いされたままで、膵臓癌になって、死ぬんですか?
ただでさえ、患者に自覚症状が現れた場合には末期の状態と言われている膵臓癌なのに、これでも私は、慢性疲労症候群の不定愁訴で、ストレスが原因だと立証も出来ない医者に見殺しにされるんですか。


実は、昨晩そうだった。
私が、こうして這ってでも書き残すのは、証拠を残すためだ。

2012年10月23日火曜日

抑え込まれてきた思い

慢性疲労症候群と線維筋痛症のために、使用してきた薬が殆ど薬疹を起こし鎮痛剤も新薬も使用出来ない。

この疾病患者なら服用していたり、薬剤名を知っていたりするだろう。

最初の薬疹が、頭痛を抑えるために服用したセデスG(SG顆粒)だった。
次に起きたDIHS(薬剤性過敏性症候群)が、メキシチールだった。
これを期に、消炎鎮痛剤は全滅し、リリカ、トラムセットもダメだった。

強度の不眠と過眠を繰り返す私は睡眠薬を使わざるを得ず、色々試してきて、アモバンという薬を3年位前に初めて飲んだ。
組み合わせで、アモバンとロヒプノールとレボトミンを最小限の単位一錠づつ試しに飲んでみようと処方された。
簡単な話、アモバンは睡眠時の素早い入眠作用、ロヒプノールは持続的睡眠作用、レボトミンは中途覚醒や浅い眠りを抑制し、完全に脳を鎮静させる作用という仕組みだ。
妙な事に、そのアモバンが薬疹を起こした。

筋萎縮が目覚めからすぐに起きて、一日中歯を食いしばってしまうと話したら、筋弛緩剤は使った事があるか?と尋ねられ、いや知らない、飲んだ事ないと言うと、レキソタンという薬を頓服で使ってみようと言われた。
楽になった。
それも何故か薬疹が起きた。

結局、安全と思われるロヒプノールとレボトミンだけになったのだが、そのレボトミンも効き過ぎるために、半分に自分で割って一ヶ月試したら十分だったと報告し、今でもその飲み方で効果はある。
抑うつを和らげるために、ソラナックスという薬を一日3回飲んでいる。
私は、SSRI,SNRI に対し不穏状態があるため、飲んではいけない。
最初から、SSRI は嫌だった。
飲むと動悸や不安感、焦燥感があって、自分についていけないから嫌だと医師に話して、止めることになったのだが、尽く薬疹が起きるために、中止と再開を繰り返した結果、不穏状態が大きくなった。

その不穏状態を改善するために、頓服用にレボトミン一錠を使うようにと言われ飲んでいたが、凄い効き目で、何も話せなくなる(口がきけない)、動かない、要するに言動も行動も思考もすべて強制停止させられる状態だった。
だから、目覚めた時、1時間くらいは何も口がきけない、動けない、考えられなくなっていた。
それが、半錠になってからは、服薬していない人と同じようにぼーっとしていながらも、出勤の準備をするような状態になった。


ところが、このレボトミンを頓服で飲む状況が次第に増えて行った。(現在は滅多に飲まない)
それは、どうにもならない出来事や怒れて当然の問題であるのに、私が折れて我慢するしかない状況になった時、薬を飲んでわざと自分を抑え込むしかなかった。
殆どが、娘や母との言い争いで、どちらの意見にも一理ある状況で、私が拒否する事が不可能と最初から答えが出ているような状況の時ばかり。

私は何度も 「こうやって自分の言い分や解って欲しい事を聞かずに押し付けられて、自分の逃げ場がないからって、薬を飲むのよ。そんな事のために出されてる薬じゃないのに。」 と言いながら飲んだ。

どうしても納得の行かない理不尽な問題や不条理な扱いを受けた時、人は怒るのは当たり前だ。
誰にでも自己防衛の本能や自己正当化する心理は、あって当たり前なのに、私は争いを避けるために仕方なく飲んできた。


怒りのコントロールが出来ない訳ではない。
普段、私はあまり必要以外口をきかない。
何か仕事上や生活上でトラブルが起きたり、必要な関わりのあるような他人と話をする時は極めて事務的に用件のみ済ますような会話しかしない。
団欒の時に下らない冗談や、楽しい会話の共有はするが、どちらかと言えば娘や母の今日の出来事を聞いたり、愚痴の相手だったり、意見を求められれば、相手の立場になって解決の糸口を見つけるような会話の方が多い。

雑談が嫌いなのかと言えば、そう云った他愛のない会話の方が好きだ。
それは何も考えず、お気楽だから心地好いのは当たり前だ。



いま、目覚めると先日の娘のドクターショッピングの事が頭から離れず、まあいいかと収める気持ちにはどうしてもなれない。
散々、色んな事を押し殺して 『仕方ない』 と無理矢理自分に言い聞かせて、それでもどうしようもない時に薬で抑え込んできた。
本当は、こんな時だからこそ、自分を守るために薬を飲んだ方がいいと解っている。そのための薬なのだから。

でも、飲みたくない。
せっかく、飲まずに色んなことに折り合いを着けて、自分やいさかい、納得の行かない問題にも無理矢理でなく 『いた仕方のないことなのだ』 世の中にはそうやって白黒はっきりさせられない問題が山のようにあるのだから、と穏やかに静かに生活すること、生きる方法を見出したのだから、もう同じ事を繰り返したくない。

それと薬で自分の確かな感情、しかも正当な主張を誤魔化したくない思いがある。
私は、精神病患者ではないのだから、そんな手段を取るのは逆に可笑しい話だ。
どんなに納得がいかない出来事でも、どんなに耐え難い屈辱であっても、人権蹂躙に晒されている状態であっても、私は何も事を起こそうとは思わない。
何を考えているか?



それは、沈黙を守ることだ。

時期が来れば、間違いだった事を気付かせるために、何も動かない。
何より、ずっと 『これが最後の賭けだから』 とある日ふと心に浮かんだところから、一年の過ごし方をお正月に目標を立てて、それに従って生活してきた。
一年の計は元旦にあり
それを淡々と実行し、努力してきた。

・当たり前のことを当たり前にやる。
・やりたいと思ったことは、絶対に実行する。
・好きな事だけしか労力を使わず、他の事はただの仕事だと淡々とやる。

それが私自身が考えた、認知行動療法だ。
だから、何か腹が立っても忘れる努力をした、泣きたい時には泣いた。
自分の取るべき責任をしっかりとやる事と、面倒臭いと思ってやりたくない時はサボることに専念した。
自分の中だけに、喜怒哀楽をしっかり感じて、決して表面には出さないように努力した。
そして、薬を飲まなくていいように、コントロールしてきた。

今更になって、そんな本来の私の姿に、驚き、後ろめたい感情を持って罪悪感を感じている人間を見て、 「嗚呼、本当に私の事をお人好しの馬鹿だと甘くあしらっていたんだ」 と思うだけだ。



最悪な事に、もうこれしか使える最終的な薬がないと言って、頓服に出されたガバペン。
痛みが楽になるが、怖いくらいに眠気がひどく、強制的に眠らされてしまう。
そのガバペンが薬疹を起こし、服用中止になってしまった。
もう痛みや強烈なだるさ、リンパ節の腫れ、首の痛み、微熱を抑えられる薬は、すべて使えなくなり、ひたすら耐えるしかない。



私は、終わりを待っている。

2012年10月20日土曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症患者のドクターショッピングの実態

私が病院をたらい回しにされたり、義務教育時代に偏見と差別を受けて来たこと、そして現在の状況などは過去の記事に書いてきた。

しかし、今回の記事は私の長女の一件について書く。

長女は小学校5年生の時、突然全身の痛みとだるさに襲われた。
それまで元気一杯で天真爛漫、学校から帰ってくるや否やランドセルを放り投げ、 『遊んでくるー!』 と近所の公園へ行っては男の子たちと毎日野球をしたり、女の子たちと滑り台や鬼ごっこをして、夕暮れまで遊んでいた。

ある朝、目覚ましが鳴っても起きてこないので、 「おーい、起きろ~学校だぞぉ」 と起こしに行くと、 『お母さん、身体が痛くて動けない』 と言って、トイレにヨタヨタ歩いた。
私はじっと様子を母と二人で見ていて、その歩く姿に 「んん?ちょっとあの歩き方何かおかしくない?」 と驚いた。
それは、まさに私が大激痛で歩く時に 「痛い、痛い」 と言いながら爪先立ちで全身に走る電気のようなビリビリと伝わってくるのを堪えて歩く姿そのものだった。

娘はその日、欠席した。
その後も学校の体育で鉄棒をしたり、プールに入ったりして帰宅すると、 『痛いよー』 と言って寝てしまい、欠席する事が多くなった。
夕食も箸が持てなかったり、食べるのが疲れたと言って、途中でもう起き上がっていられず寝てしまう日が増えていった。


私の通院の時、その事を主治医に伝えると、 『家族内多発の疑いあり、小児線維筋痛症と小児慢性疲労症候群』 とメモを書いてくれ、ある病院の小児科の医師の名前を言い、すぐに行くようにと指示された。
主治医は、私にこう説明した。
『この病気は、女子が発症した場合、女子を出産すると80%の確立で遺伝することがアメリカリウマチ学会で言われているんだよ。だから、その可能性はあるから、もう一人の下の娘さんも注意して居て下さい。』

その後、紹介された病院へ連絡し、長女を受診させた。
診断は、症状が全部出揃っていないから、まだ(疑い)と云う事になるけど、治療して経過観察しましょう。となり、1年半通院した。
しかし、途中で私の病状が思わしくなくなり、寝込んで長女と次女の二人の面倒が見られなくなってしまったため、私は児童相談所に連絡をし、児童養護施設に入所させなければ仕方なくなった。
児童相談所に話したのは、 「食べる事と寝る事、それと学校に行かせて、必要な時に病院に行かせる。その最低限の事だけ与えてやって欲しい。それだけでいいのでお願いします。」 だった。
自分の病気によって、最低限の事が与えてやれない程の状況だったから、命の保障を懇願した。

しばらくは、長女の通院日に迎えに行って私が付き添い、医師と相談していたが、それも無理になったため、施設の職員に通院を頼む結果になった。
それから1年後、施設から娘たちは脱走し私の元へ帰って来ることになった。
脱走した理由は、長女が何を職員に訴えても無理矢理学校へ手を引っ張って連れて行かれ、施設内でも職員と入所児童が結託して娘を孤立させる、娘の行動や荷物を同室の児童に監視させチクらせる、荷物を隠すなどのいじめをされ、校舎の3階の窓から何度も飛び降りようとしたということだ。
その施設職員からの報告によって、私と娘たちは、児童相談所から 『児童との面会、通信、接触を制限する』 と半親権停止命令に近い決定所が一方的に説明もなく郵送で送られてきた。
私は断固抗議をしたが、半年間黙って受け入れる事より他なかった。
それは、協同防衛の思想や私の精神科通院歴によって到底勝ち目がないと判断したからだ。
その時、施設の職員は医師に 『この子は施設内でも何ら問題なく生活しているし、むしろお母さんとの生活の事が苦痛になっていて、どうも母親が一人で病気を苦にしているだけのように思う。』 と話した事で、私が病気の誘導(あたかも代理ミュンハウゼン症候群のような言い方)をしていることになり、診察も診断も歪められ、強度の精神病院への入院を 『娘が』 紹介された。
そこで通院をやめてしまった。

最終診断は、 『自律神経失調症、登校拒否症』


脱走後、引き取ったが、娘の精神状態は人間不信と外出や人に会うことへの恐怖感がひどく、独り言をぶつぶつ言ったり、テレビをぼーっと観ていたり、相当な放心状態だった。
小学6年生の卒業式も出たくない、卒業文集も書きたくない、卒業アルバムも要らないと拒否していた。
卒業式当日の朝、私は 「行くだけ行こう、この次は中学の入学式になるんじゃん。だから終わりのけじめを着けにお母さんのために行って。お願い。1年生の入学式の時、お母さん嬉しかったんだよ、だからお願い。」 そう言って出席した。

中学に入学しても、やはりあまり登校出来ず、私は娘に 「義務教育だから無理矢理行かなくても単位を落とすとか、留年や退学はないんだから、行ったり行かなかったりしないでゆっくり休みなさい。療養に専念した方がいい。」 と何度も説得したが、やっぱり寂しかったり、友だちと会いたかったり、人並みの中学生で居たい思いが強く聞いてはくれなかったが、やる気があるのだから、あるがままにさせておこうと様子を見ていた。
2年生の3学期頃に症状は随分と悪化していて、このままではもっと悪くなると私は思い、自分の主治医に相談すると、今度は専門が熊本大学にあるからと教えられ、自分でインターネットで調べ、連絡をし、熊本まで行った。
経過を説明し、何十枚もの問診表や色々検査を受け、診断は確定された。

『小児慢性疲労症候群および小児型線維筋痛症(重症型)、睡眠障害、顎関節症』

通院は遠方のため不可能だから、かかりつけ医にてフォローをしていくということになった。
しかし、かかりつけ医は病気を見れないと言い、私の主治医に診療申し込みをしたが 『15歳未満の患者は診察できない』 と断られ、他の受け入れ先も探してくれようと手を尽くしてくれたが何処も無理だった。
そうこうしている内、処方されたパキシルを2週間服用した頃、娘は不穏状態がひどくなり、リストカットを自分の意思とは関係なくしてしまった。
かかりつけ医に連れて行き、すぐに児童精神科の予約が入り、受診した。

3ヶ月ほど通院したが、不穏状態は消えたもののもっと精神状態は悪化し、自傷行為が続いた。
その児童精神科医の専門は、広汎性発達障害であり、私がLDの可能性はないですか?と尋ねた事で娘の問題はもしかしたら、そこにあるかあもしれないとなり検査を受けた。

結果は、 『アスペルガー症候群、行為障害』

現在まで2年近く、通院をして何度か薬の副作用が認められ、調整が繰り返された。
児童相談所の通所はその診断を受ける以前から行われてきたが、学校側も児童相談所側もその診断に非常に驚いて、そんなことはないと完全に否定した。
熊大の医師に電話し、もう一度検査して欲しい、本当に小児慢性疲労症候群なのか薬はどうしたら良いのか指示を仰ぎ、再度熊大へ行った。
そこで、娘はアスペルガーではないと断定された。

高校進学について話があったが、私は反対した。
「入学しても行ける体力もないし、行けなくなって、また挫折感を味わって結局退学になるだけだから、行かなくていい!」 と、強く言った。
しかし残念ながら、担任と娘が話し合って、進学の方向で考えると報告されたので、それなら単位制の昼間定時制が合ってると思うよと提案し受験した。
このご時勢、不登校児童が多く殆どがフリースクール出身者が多かったために、その受験倍率は5倍だったが、娘は合格してしまった。
そうして、中学校からは体裁良く追い出され、案の定、4月最初の一ヶ月だけ通学したものの、それきり履修不認定になって1年生が終わった。
2年生に上がり最初から単位を取り直すことになったが、結果は同じく4月だけで終わり、2学期に入り 『全単位履修不認定により退学処分』 という結果になった。


私の通院日に帰りに美術館に行こうと誘い、娘を付き添いがてら連れて行き、どっちが病人で受診患者なんだかというくらい娘は顔面蒼白でぐったりし、一緒に診察室に入るもだるさで朦朧としていた。
主治医に、この娘が例の子なんですけど、どうしたらいいんでしょう?と尋ねると、こう言われた。
『ああ!もう経過観察なんてしている場合じゃないよ!ダメダメ、すぐ治療に入らないと。』
そして以前と同じように、病院名と医師名をメモに書き、ここに行きなさいと指示された。
注意されたのは、必ず確定診断をした熊本大学の医師に連絡してから行くようにとの事だった。
すぐ、連絡し事情を話すと、そこの病院に行くことは大賛成だが、自分が経過観察をしていないから紹介状は今診ている精神科に頼むのが筋道だからと同意と指示を得た。



これが現在の最終章になる。
完全紹介予約制の病院だったため、通院している児童精神科医に紹介状を書いてもらうより他なく、事情を説明した。
すると、医師は 『そんなものは行っても意味がない。所詮対処療法しか出来ないんだし治らないんだから。』 と言い、私は反論した。

「そうは言っても、対処療法は苦痛の症状を和らげて、動けない問題を解消するために必要なものだし、この病気は内科には内科の役目があり、精神症状に対しては精神科の役割があるから両科で分担しながら治療する必要があるんじゃないですか」
「何も精神科の通院を否定なんか全くしていませんよ、私自身がこうやって長年薬の調整もしつつ、やっとここ2,3年で精神科の方は合う薬が続けられるようになって安定している訳ですし、対処療法も大切な治療の一環じゃないですか」

そう言うと、 『じゃあ、アスペルガーって話はどこに行っちゃったの?』 と問われたので、
「いや、それは私に聞かれても解りませんよ。でも結局は両方とも原因は不明なんだし、同じような脳の場所が誤作動をしているんでしょうから、病名とか診断名に何の意味もないし、必要な治療と処置をしなければというだけの事じゃないんですか?」
と言ったら、娘がその大人のくだらない押し問答に業を煮やして一言。

「私はアスペルガーじゃない!学校に行けないのもバイトに行けなかったのも対人関係がうまくいかなくなったからじゃなくて、身体がだるくて仕方がなかったのと、歩くと足が痛くて歩けなかったり、トレイを持っている腕が筋肉痛で痛くなって、手首に力が入らなくなったりして出来なくなったのが原因だもん。精神的に憂鬱だからダメになったんじゃないし、勉強だってやれば解るもん!」
その一言で、紹介状と予約連携を手配された。


遂に、指示された 『若年性線維筋痛症』 を診察している医師を尋ねた。
その紹介状の内容は次のように書かれてあった。(抜粋)

母親が慢性疲労症候群と線維筋痛症を長年患っており、主治医から患児を受診させるようにとの依頼があったということだが、詳細は不詳。
患児14歳:太い眉と大きな目だが、視線は節目がちで気だるそうに椅子に腰掛け、時折視線を合わせるが言葉はたどたどしく、会話の噛み合わないところが特徴的。
(苛々した様子で机の淵を爪で引っ掻く、鼻くそなどお構いなしにほじるなどあり)
母親は幼児期に発達障害の様相が見られ、近親者に特異なエピソードを持つ人が居り、結婚した夫からのDVにより、離婚。そのDVが原因と思われるが、患児に対し厳罰な体罰、殴る蹴るなどの度重なる虐待があり、児童相談所が母子分離の目的を持って、何度も児童養護施設に預けられるなど、養育困難な状況があった。虐待や母親の精神不安定などから養育不能な状況と判断できる。
母親の話はまだ断片的でつながらない、錯誤など解り難い状況。
患児もまた、母親と同じCFS,FMSと熊大などで診断されたとの事だが、広汎性発達障害と考えるに妥当な状況と判断できる。
線維筋痛症と広汎性発達障害では同じように、易刺激性、感覚過敏、対人関係の不安定性などの適応障害は重なる部分があり、否定しえない。

この内容だけに重点が置かれ、これまでの経緯の資料を全てコピーして私が持参したものにも話にも耳は傾けられず、むしろ何故年齢的な問題からして私の主治医が有名な専門医であるのに診察しないのか、そちらの方が理解できないし、私は専門じゃないから、やっぱり精神科の方で治療を受ける方が良いと思う。
私では使える薬が見つけにくいし、治せるとは言えないから、一応返事だけ書きましょうか。
と言われ、それか痛み外来なら他にもあるから、○○大学に行かれますか?
との話になったので、私が
「いや、それは行っても無駄だと思いますよ。出来れば先生に3ヶ月なり一定期間経過観察して頂いた後に紹介とかは出来ませんか?」 と頼むと、しぶしぶ3週間後に一応の予約を入れた。
触診だけで、血液検査も、処方箋も何もなしだった。
この診察に1時間も掛けた結果が、これで、そして医療費だけはきっちり請求された。




帰り道、娘に
「まさに、この状況をドクターショッピングって言うんだよ。こうやって、あっちにやられ、こっちにやられ、みんな擦り合いをして、診断名だけはきっちり着けるものの受診はそれとなくお断りして拒否するのね。で、患者は医師の言う通りに行動しているだけなのに、自分で勝手に判断して、病院巡りを繰り返しているって次々に思われて、身体表現性障害とか自律神経失調症とかうつ病とか、バンバン、レッテル貼りされて、挙句の果てに誤診されて、面倒な患者だと思われて受診拒否って結果よ。お母さんが、まだCFSもFMSも解らなかった時代にやられてきたことが、これで解った?」
と言うと、娘は
『もう、お母さんいいよ。これ以上お母さんが一生懸命先生の言う通りに動けば動くほど、どんどん、お母さんが嫌な思いをするだけだし、所詮誰も私の状態なんか聞いても、診ても、解ってもくれないってよく解ったから。もう、どこの病院にも行きたくない。20歳になれば、大人だからってことで診てくれる医者は居るんでしょ?だったら、それまで待つし、学校も仕事もダメになったから我慢するよ。もういい!!』 そう答えた。

これまでの間、娘は何度もリストカットやグラスを割ったり、ふすまにナイフやフォークなどのサーバーを刺したり、私と言い争いになって家庭内暴力を繰り返してきた。
その度に、私と次女がビジネスホテルに避難することや警察を呼ぶ事も何度となくあった。
その次女は通学は出来ているものの、やはり小学生の頃から全身の筋肉痛や倦怠感で一年に一度は寝込むことを繰り返している。


もう、私に出来る事は何もない。
親子の間で、過去の虐待といわれる問題についてはもう既に納得し、お互いに箱に閉まって 『終わった出来事』 に出来ているにも関わらず、娘の状態が悪くなる度に、その経緯を詳しく何も知らない他者、しかも有識者で権力者からまた持ち出され、そこに原因があると紹介状に書かれ、名誉毀損にも等しい扱いを私は受ける。
すべての責任が、この私一人にあるとされ、私が過去に受けた虐待や差別、そしてその影響を大きく与えた父親との離婚から11年が経とうとしても、その父親は養育費も慰謝料も何の請求もされずに責任も取っておらず、私ばかりが責めを負わされる。

虐待の連鎖については別として、私が慢性疲労症候群と線維筋痛症であることに、何の責任問題があるのか、何故それを責められなければいけないのか、そして、それが故に養育不能とまで何故誹謗中傷されなければいけないのか、わからない。




だから、あの時本気で死のうと、心臓を刺したのに。
今更、殴ったことや養育不能が原因と言われるならその時、児童相談所で事情を全部告白していたのだから、私を告訴して刑務所に入れれば良かったでしょう。
私を面倒見る病気の母にも、子どもにも私が原因で負担になる。
だから、私が死ねば、私もこの病気の苦しみと果たせない責任から自由になれる、そうすれば、母も子どもたちもみんな解放されて自由になれる。

そう思ったから心臓を刺して失血性ショックを起こしていたのに、母に気付かれて病院に運ばれて生き返らされた。

それしか、いまの私の頭には、思うことはない。
原因不明で対処療法しか出来ず、それもろくな手立ても打てないくせに、虐待が原因だって科学的根拠が証明されたような言い方をして、それでも結局、何にも出来ないって言いつつ、研究費だけは国から支給されて、最終的にはあんたが悪いって責任転嫁して、研究のお株だけは挙げて、名医って名声だけ持って行って、あんたら 『専門医』 って看板掲げてるくせに何にも患者を助けていないでしょうが。
親子共々、振り回してドクターショッピングさせてるのは、あんたら 『専門の名医様』 だろうが。

いい加減にしろ。
医者はボランティアじゃなく、きっちり診療報酬と給料と売り上げ上げてる有料だ。

2012年10月15日月曜日

孤立する自分

私はどれぐらいの年月、孤独を感じて、そして孤立した生き方をしてきたのだろう。
多分、幼児期から孤立していたのかもしれない。

原因は生活や家族など様々なところにある。
しかし、いつしか、それが私の生き方になった。

望むと望まざると、私が歩んだこの人生は寂しいものだ。
心が寂しいとか、そんなことではない。
私は人に助けを求めない。
私は人に甘えない。
私は人を当てにしない。


元々、『人間は一人で生まれ、一人で死ぬ』 この考え方がある。
決して社会との交流を自分から拒絶してなど居ないし、対人関係で悩むようなこともない。

でも、私は 『人間っていいなぁ、人ってあったかいなぁ』 と感じた事はなかった。
そう自分の心の奥底にある無意識の思いに気付いたのは、娘の悩みを聞いていた時だった。

娘も同じく、小児慢性疲労症候群、小児線維筋痛症と発症と診断をされて5年になる。
元々、元気で活発だった娘が、突然朝起きられず、トイレに行く姿が 「痛い、痛い」 とつかまって歩く姿を見て、「ん?何かおかしい」 と思ったところから、自分の主治医に話すと 『家族内多発の可能性あり』 と言われ、遺伝を指摘され、メモを渡されたのがきっかけだった。

色々なことに 『訳がわからない』 と悩んで話す娘の聞き役になっているが、とどのつまり答えてあげられない問題がある。
それが、この 『人っていいなぁ』 と思ったことが一度もない点だ。
残念ながら、そんなことを娘には言えない。
彼女が、現状の生活や病状、自分や友だちとの人間関係に悩み、思考力のない故に起きる問題だからと、手に取るように理解出来る私の意見は、あまりに残酷で夢や希望、これからの可能性をすべて壊してしまうようにしか思えない。

だから答えられない。


何となく、私を病気の大先輩だからと思い、辞書のような感覚を抱いているのが解るだけに、あまり病気の対処法など教えない。
それは、とても危ういもので、更に誘導しかねないからだ。
あるがままにさせている。
『いずれは私もお母さんと同じようになるのかなぁ』 と疑心暗鬼になって不安になっているのを見ると、 「そうとは限らない。ならない。」 そうやって否定するしかない。

知っているのに、教えてやれない。
解っているのに、止めてやれない。
とても、苦しい。

教えてやるのは、生活上の注意点だけだ。
娘が、痛いやだるい、頭が回らない、眠れない、など具体的な訴えをしてきた時だけ、「それはPCのやり過ぎの電磁波に当てられたんだね」 とか、
死にたいと言ってくれば 「そう思うだけで、本当は生きたいと思ってるから反対の事が浮かんできてるだけだよ」、
「自分の命を切り捨ててまで解決できないような問題なの?もし、そうじゃないなら、命より先に、嫌な問題の方を切り捨ててしまえ。全部切り捨てても、やっぱり命を捨てるより仕方がないと思うなら、死にたいと思うのは仕方がないかもしれない。それくらい、あんたにとって苦しくて、つらくて仕方ないんだったら、生き地獄ってことだと思うから。生きながらにして地獄を味わう事ほどつらいことはないからね。」
と、最終的にはこんな私が 『生きていてこそだから』 と教える。



結局、何もかも、その 『生きていてこそ』 味わうものばかりだ。
学生の頃、私には沢山の仲間や友人が居た。
卒業後も、いつも私を宴会や遊びに誘ってくれた。
しかし、必ず行った先で具合が悪くなったり、途中で帰ってくることも多く、約束しても当日になって体調が悪くドタキャンすることが多かった。
友だちには、予め頼んでおいた。
「私、わからないから、当日思いついたら誘ってみて。約束破るの嫌だから、ごめん」
そうやって、 『今日』 誘って貰う方が意外と付き合えた。

でも、それも次第に付き合えなくなり、友だちも誘ったら病気が悪くなると思って誘わず気を使ってくれ、結果誰とも連絡を取らなくなった。
勿論、結婚や出産などの忙しさや、友達と遊ぶ体力があるなら、子どもと遊んでやりたいと思う方が優先されたのも理由だ。

今でも、娘たちは私との時間を大事にしたい、お母さんが元気な時にあそこに一緒に行きたいと言われ、寂しい思いを強いているのが嫌だ。
生まれた時から、寝転がって遊んでやるか、保育園の送り迎えの途中、公園に寄って遊んだり、日曜日は近所の公園巡りで思いっきり遊んであげることしか出来なかった。

その遺伝したであろう娘が言ってくれた。
『お母さん、いま玄関まで歩ける?車椅子押してあげるから一緒にコンビニ行こうよ。』
車椅子に乗ってでも一緒に行ってくれるなら、それだけでメチャクチャ嬉しいから、と。
ありがとう。
本当にありがとう。


ただ、居てくれるだけでいいと言ってくれたのは貴方たちだけ。
ただ、出来る時でいいから、一緒に何かしてくれるだけでいいと言ってくれたのは貴方たちだけ。


益々、私の孤独は深まっていく。



※この記事は、2011年3月28日に書きかけていたもの。

2012年9月30日日曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症における失神状態

私は日常的に失神を起こしている。
それは前駆症状として、自覚する激しい疲労感と全身の痛みが起きた後だ。
その自覚症状も自覚出来なくなるほど、鈍く何ともいえない感覚麻痺の後、 「うう、もうダメ」 と一言言ってから、ベッドやソファに横たわってぼんやりしだす。
そのすぐ後にストンと意識がなくなっている。

周りから見れば、その姿はまるで眠っているようにしか見えない。

しかし失神してたと解るのは、何時間後かにいきなり飛び起きるからだ。
突然の意識の覚醒で目覚める。
自分がいつ、そうなったのか、その時は理解出来ない。

犬がいつも心配して、私の手や顔をガリガリ前足で触ったり、クンクン匂いを嗅いだりしても目覚めない。
時々その刺激によって、朦朧とする事もある。

今日、娘が教えてくれた。
『お母さんが寝てる時、ウロウロしてて、お腹の所でグルグル回ったり、ガリガリしてて、それでお母さんが起きたんだよ』
そう言われたが、私にはそのゴソゴソされた記憶は全くない。
それで飛び起きた意識も全然ないのだ。

起きた後、不思議な感覚がある。
すーっと、何だかとても爽やかで安らいだ感覚なのだ。
それまでの強烈なだるさや痛みがなくなって、爽快なのだ。
でも動くことも話すことも最初は出来ない。
一時間くらいして、一気に喋りだし、考え出す。

私が 『失神状態』 を理解できるのは、母が心臓病のため小さい頃からよく突然発作で倒れて救急車に乗った経験があるからだ。
ICUでずっと付き添い、モニターを見ながら、医師や看護婦が心臓マッサージなど蘇生をし、その後母の意識が戻った時、母は何も覚えていないし、自分が何故ICUに居るのかもしばらく理解出来ないでいた。
その覚醒した時の母は、飛び起きるかのような状態で目覚め、まるで不眠不休の激務の後ぐっすり熟睡して目覚めたような表情をし、とても爽快な表情をしているが、物凄く疲れきったような具合の悪い身体つきでベッドの上に横たわっている。
やはり、意識が曖昧なのか訳の解らない様子で、一時間近くはうわ言のように何か言ったり、考えたりして、しばらくはパニックにも似た感じでいるが、落ちつきだしたら私がゆっくり経緯を説明すると記憶はないが何となくそうなのかと云う感じでいたのだ。


そんな状態と本当に良く似ている。
何故、失神するのかは解らないが、慢性疲労症候群や線維筋痛症の症状に耐えられなくなって、突然脳が強制的にシャットダウンして、身体をくたばらせるのかもしれないと感じる。
それは、頓服の麻薬を飲んでも痛みが治まらず、どうしようもない 「うう、もうダメ」 と倒れこむように横になる時や、薬も飲んでいなくても同じ状態が毎日のようにある。


失神と覚醒を日常的に繰り返していると、よく解らなくなる。
その眠っていたかの時間は2時間くらいの時もあれば、5時間くらいの時もある。
睡眠薬や麻薬の副作用なら眠気が差してと自覚できる。
しかし、目覚めてから何時間も経って、特に何かをして疲れたから仮眠したいとか、そう云う心境の思い当たる節がなく突然やってくる。

頑固な不眠と過眠は確かな症状だが、それとは違う。
一旦、きちんと目覚め、家事や何らかの行動をしたり日常生活の途中で突然襲ってくるものは、失神だったと、だいぶ後になって気付いた。
何より、普通に眠いなあという、あくびをしていない。

こんなことばかり、繰り返せば倦怠感や痛みが解消されないのも当然かと思った。
ビクとも動かず固まって眠って、ビックリして起きるのだから。
それは苦しい。

2012年9月27日木曜日

慢性疲労症候群と線維筋痛症の症状の伝え方

慢性疲労症候群の特徴は、全身の激しい疲労感とリンパ節の腫れ、微熱あるいは低体温、全身の筋肉痛であり、起き上がれない程のだるさが特徴だ。
線維筋痛症の特徴は、全身の激しい筋肉痛だが、痛みが毎日全身のどこかに移動している。その痛みによってだるさがひどいことが特徴だ。

前者はだるさが主な強調的症状、後者は痛みの後からだるさに襲われる違いがある。

慢性疲労症候群の症状を伝える時、 『誰でも一回は、ひどいインフルエンザに罹るでしょ?そのインフルエンザがずーっと毎日続いている状態です。想像してみて下さい、その状態で起き上がって仕事やトイレに行けますか?』 そう伝える。

線維筋痛症の症状を伝える時、 『普段やったこともないような例えばフルマラソンや柔道とかいきなりやったら、すごい筋肉痛で動けなくなりますよね?それがずーっと毎日続いてる状態なんです。』 そう伝える。

相手に解り易く、想像させるのが一番だ。
それも日常的な、ごく簡単な問題を採り上げるのが効果的だ。
すると、誰でも 『嗚呼、なるほど』 とうなずく。


日常生活の細かな労作の問題の伝え方について、私は自分に 「嗚呼そうか!」 と感じた。
手がこわばって動きにくい状態は、健常者にとって 『トイレや汚物を掃除する時に使う分厚いゴム手袋を一日中はめて、字を書いたり、包丁を持ったり、髪の毛を洗ったりしているような状態』 だと思った。
それは、動きにくいだけでなく、水の冷たさや触っている物の触感がないことでもあり、握力の感覚もない状態だ。
全身は、ダンボールを被りロボットのように胴体も、腕も足も動かすような状態だ。
『全身コルセットさん』 になっているようなもの。
そう思った。

元々、両疾患は、慢性関節リウマチと症状が似ている。
そのリウマチの患者さんの動きは、だるさと痛み、こわばりがあり、日内変動も同じ様に起きている。
歩行困難や眩暈、吐き気なども日常的によく似ている。



私は、どんな病気かと聞かれる相手によって説明(病名)を考えている。
救急隊や警察、役所などの公的機関関係者には、実の病名を言って、前述のように説明を正直にするが、近所の人や他愛のない関係の人には、 「まあ、リウマチの中の病気です」 くらいにしか話さない。
可笑しなことに、リウマチや膠原病と言うと、誰でも 『まあ、それは大変ねえ』 とすぐに理解する。

私自身は、そのリウマチや膠原病の人の詳しい状態を殆ど知らないし、主治医が診察している患者さんはほぼ膠原病の患者さんで何十年も待合室で顔を合わせて来たが話したことはない。
シェーングレン症候群やリウマチの患者さんばかりで、診察室から先生の声と患者さんの訴えの会話を聞いてきたが、決定的に私とは違う。
指の関節が固まり変形したり、どこかに軽くぶつけて皮膚が破れるなどの症状はない。

どうして、一般の人は膠原病という病名だけで理解するのだろう?
リウマチの患者さんの症状や日常生活の困難なことを知っているのだろうか?
私には、解らない。


でも、興味本意で聞いて来る人には、それで話が済むのだからと思って、敢えて真実を語らない。
世間に認知させようと無理なことをしない。
それは、私が中学1年の時、 『怠け病だ!』 『お前は病気の振りをして登校拒否してるんだ!本当に病気なら学校でぶっ倒れてみろ、そうしたら救急車を呼んでやるから!』 そうやって担任や副担任に言われ、家にまで朝一番で押しかけて家の中にズカズカと無理矢理上がりこまれて殴られた事があったからだ。
その時の通知表には、 『怠学』 と書かれた。
結局、3年間ろくに登校できなかったが、高校進学して私は、怠け病のレッテルを貼った教師や当時の警官、教育委員会の関係者を見返してやろうと、必死で頑張った。

高校1年の時、無遅刻、無欠席、無早退の皆勤賞を獲った。
成績はオール5だ。
2年生の3学期、後一ヶ月で終わる頃、3日間、まったく起き上がれず、死んだように寝たきりになって皆勤賞は獲れなかった。
自宅に担任が電話をくれ、 『何とか学校まで来れないか?来るだけでいいから、そうしたら皆勤賞が貰えるし、精勤賞もあるから』 と言ってくれたが、会話も朦朧としていたため、 「先生ありがとうね、でも無理だわ。病気で行けないだけで、病気じゃなければ皆勤賞なんだから、そうやって解ってくれるだけで十分だよ」 と言ったら、担任は私のために泣いてくれた。

卒業して就職した時に、ひどいインフルエンザに罹ったことで、今の状態になった。
何箇所も入院したり、受診をしたが自律神経失調症と言われ、会社も遅刻、早退、欠勤が多くなり、休職を何度か繰り返した。
その時、今の主治医に出会った。
会社でも同じ様に、色々な憶測や誹謗中傷は受けたが、それは社会人として仕方がないと思っていた。
2年半勤めたが、会社に迷惑が掛かると思い、社長と話し合って、退職した。
「私ひとりを雇っていて、来るのか来ないのか、復職出来るのか見込みがつかず当てにならない状態では、他の人に迷惑が掛かるし、社長も人員の補充に困ると思う」 と言って辞めた。
私は、仕事を多く任されていたし、期待されていたのも解っていたから、尚更潔く自分の不甲斐なさを詫びる方が誠実だと思った。
仕事に病気は関係ない。
やるか、やらないか、そのどちらかしか必要ない世界なのだから。


20年経って、その会社を尋ねた。
社長や上司に会って、身障者手帳を見せて、それまでの経過を話し、「あの時の病気がいま、こういう状態なんです。でも私を雇い、仕事を教えてくださり本当に有難うございました。」 とお礼を言った。
その当時は、誰もこの病名や状態が理解できなかったが、今では少しづつ世間にも病名が公表され、耳にしたことがあるお陰で、そうだったのかと思ってもらえる。
私は、それだけでいい。

会話をする相手に、「病気は早期発見、早期治療だからね。大丈夫なんて甘く考えないで、治せるならちゃんと治した方がいいよ。そうしないと私みたいになっちゃうからね。」 と声を掛ける。

2012年9月14日金曜日

包丁が思うように使えない

握力がないから仕方がない。
アスパラガスのベーコン巻きを作ろうと思い、アスパラガスの根を切ろうとした。
「何だ!?このアスパラ、すっごい硬い!切れないぞ」 と、ビックリした。
大きな文化包丁を使うのを止めて、ぺティナイフに変えてやってみた。
結果は切れなかった。

とうもろこしを茹でようと思い、半分に切ろうとした。
「はあ!?切れないぞ? あれ?もしかして、私の握力がないから切れないのか?」 と、手伝う娘に聞いてみた。
娘が 『ん?ちょっと貸して』 と言って切ってみるとあっさり切れた。
私は 「うーん、そう云う事か。こんな力もないのか」 と言って、娘が 『ちょいと切れ目を入れて、あとボキって折れば良いんじゃない?』 と言われて、「ああ、そっか」 と作業をした。


やきそばを作った。
材料を炒めて、やきそばを炒め味付けをして、お皿に盛り付けた時には、そばは伸びてた。
炒めている時にフライパンを返そうとしても持ち上がらない、盛り付けようと鍋敷きの所に持って来る時に手首に力が入らず、握っている感覚もなかった。

カルボナーラを作った時も同じだった。
パスタはアルデンテに茹でてあり、オリーブオイルも降って伸びないようにしてあるのに、伸びてた。


結局、作業に時間が掛かるから出来上がった時には料理も自分も伸びてる。


ミョウガを刻んだ。
千切りにしようとしても、一回づつ 「よいしょ」 と刻む具合でさっさと出来ない。
きゅうりを薄切りにして和えようと思い、切るが遅い。
まるで料理初心者のような手つきだ。

その時の特徴的な姿勢は、添え手が丸まり材料を抑え切れていない、体が硬くなって丸まっている。
立って作業が出来ないから、椅子に座ってテーブルの上でやるが、それでも何回も休憩をする。

夏の定番料理のそうめんや冷麦なんて、伸びてしまうから、そんな手早い料理は難しい。
冬の定番料理の煮物なんて、焦げないよう、煮崩れないよう見張っていなければいけないから、そんな気長な料理は難しい。
煮物は煮上がる(煮汁がなくなる)寸前に照りが出るため、仕上げの最後が決め手になる。



どんな料理でも大抵の物は作れるが、一番出来ない事が 『材料を切る』 下ごしらえだ。


筋力低下と硬直は、全身の脱力感、倦怠感、筋肉痛、疲労感を起こす。
これが慢性疲労症候群と線維筋痛症の症状だ。
そして、一回夕食を(たったの一汁一菜)作っただけで一日中寝込んでしまう。
情けない限りだ。

卵かけばっかりになるのも当然。
食べるエネルギーがなくなれば、カロリーメイトゼリーになるのも当然。
その内、水しか飲めなくなって、その水を飲み込むのもつらくなって飲めなくなる。
脱水症状と栄養失調に気付かなくなって、やっと病院に行ったことも何回もあった。

一食を何回にも分けて、一日で食べる。
そのエネルギーは、基礎代謝量にも満たないのだから、痩せていくのは当然だ。
栄養失調で居れば、思考力も判断力もなくなって、体力もなくなって、あちこちおかしくなるのは当たり前だ。
でも、それが慢性疲労症候群や線維筋痛症が故に出来ないのだから、悪循環としか言いようがない。

こんな状態でも、入院の適用がされないこの病気の実態を書類だけで計ろうなんて無理だ。
一ヶ月に一度、何分間だけの受診で、何を知る事が出来て、お役所の基準を満たすデータが採れると思っているのだろう。
科学的根拠と立証がなければ、適応されないのなら、それは 『うつ病』 や 『新型(?)うつ病』 も同じだ。


昔あった田舎の診療所や療養所の制度をもう一度作ればいいのに。

2012年9月5日水曜日

この痛みを消して

2ヶ月前までは、慢性疲労症候群の全身倦怠感で 『鉛のようなだるさ』 がずっと続いていた。
そして今は、線維筋痛症の全身筋肉痛がひどくて、痛くて身動きが取れない。
何処に楽な姿勢で体を収めればいいのか、姿勢を変え動いてばかりいる。
お陰で、痛みで疲労感は追い討ちを掛ける様にひどくなる一方だ。


リリカが発売されてすぐ使った時、すごく痛みやだるさが軽くなった。
一週間も経たない内に、全身が真っ赤になって痒みが出だし、病院の婦長さんに電話をした。
折り返し、先生に確認してくれた結果、使用中止になった。

トラムセットが承認されてすぐ使った時も、今までの痛みが嘘のように消えた。
一週間後、発疹や蕁麻疹が体のあちこちに次々と現れ、大学の皮膚科に行ったら、薬疹だと言われ、また使用中止になった。
そして、このトラムセットの結果を先生に伝えると、含有薬のアセトアミノフェンが原因だから仕方がないと言われ、 『残っている分は全部破棄して下さい。どうしても辛くて我慢出来なくなると手を出してしまうからね。』 と注意された。


そうだろうな。
嘘みたいに痛くなくなって、効いたんだから、何と引き換えにしてでも使いたくなるよな。


メキシチールをもらった時、本当に嘘みたいに痛みもだるさも消えて、動けるようになって楽だった。
それがDIHSになったんだから、使えなくて当然だ。




今でも使いたいと思ってしまう。
これだけ連日、何ヶ月も同じ和らぐ事のない痛みで、居ても立っても居られないのをどう我慢すれば良いの。

この痛みを消して。
せめて、和らげるくらいして。

痛い、本当、痛い。
だるくて、だるくて、痛いからだるくて。
どうにもならない。

どうして、ある患者さんは麻酔科に行けて全身に痛み止めを打てるのか、その理由が解らない。
整形外科での治療を受けている人も居る。

私は歩くのがつらくなって、自分で 「杖があったら少しは歩ける、多分楽だろうなぁ」 と思い自費で医師の指導もなく、高齢者介護のお店で買った。
その杖も握力がなく、全身を支えるのも無理になって、杖すら重くて歩けなくなった。
それで、自分でまた車椅子を買った。
杖は、首や背筋の負担が大きいらしく、かえって具合を悪くするだけだからと整形外科で使わない方がいいと言われた。

全身の筋肉痛と脱力や力がないため、自力では動かせない。
どうしても外出しなければいけない時に、娘に押してもらうしか方法がない。
障害者支援でも、通院介助は出来ないと言われ、何度も相談しているが付き添いは出来ないと断れている。
介護の等級は決して軽いレベルの認定ではない。
身障者手帳の等級は、一度却下され再申請をしてやっと降りたが、もう8年経過しても等級の見直し申請をすれば、認定されなくなる可能性の方が高いと医師から言われ、この地方自治体では慢性疲労症候群も線維筋痛症も却下されているそうだ。

結局のところ、介助や援助を受けなければ身動きが取れない状態がどんどんひどくなっていても、財政難や引き締め政策で、何も受けられない。

現実は、どうにもならない。
少し手を貸してくれたら、少し支えてくれたら、何とか一つくらいは出来るのに。
食事の用意なんて、半日掛りでやっと。
掃除なんて、掃除機を掛けるだけで2時間。
お風呂なんて、一ヶ月に2回くらい。



娘に助けてもらうといっても、娘たちにも学校や勉強、部活、アルバイトと色々忙しい用事がある。
そんな頼ってばかり居る訳にもいかない。
夕食を作ってくれるが、自分の分だけ適当に作って食べなさい。
そう言って、私の事に構わなくていいから、自分のことを一生懸命やりなさい、余裕がある時だけで十分だからね。そして私は食べなくなった。

娘たちは、生まれた時から私が病気だったのもあるし、一緒に手伝うままごとから始まって、今では殆どの料理が出来る。
それは、私の介護を将来(現在)させるために教えてきた訳じゃない。
『自分で自分のことをきちんと出来る人になりなさい』
それが私の教えだからだ。
食事の用意は、自分たちの食べる物を作るのだから、家族全員で用意する。それが我が家の教えだ。

もし結婚して、ある日突然旦那さんが病気になったり、事故で亡くなったり、離婚したりしたとしても、自立して生きる知恵があれば戸惑う事が少なくて済む。
もし、何事もなく安定して夫婦ともに生活できるなら、互いが自立しつつ協調しあって、持ちつ持たれつやれれば、それはとても助かるからだ。
互いが自立し、それでいて共に力を合わせ、万が一どちらかに何かがあったとしても慌てず支えあえる。
そうやって、いまの自分の力や知恵で出来る事を一生懸命やればいいんだよ。と、教えてきた。


お陰で、娘たちは私を助けたり、緊急時に援助してくれたりしても、普段は甘やかさない。
身動きも出来ず、ソファに伸びきっていると私の動かない指に、楊枝を挟んだり、赤鉛筆を挟まして 『はい、煙草だよ~、いいねぇ赤いよ?この煙草』 などとおちょくって笑う。
「寄って鷹って、動けない親の体で遊びやがって!コノヤロー」 冗談で言うと、口しか利けない私をまた笑う。
それでも痛がる私に何もしてやれないと、心配しながら傍でスマホをいじっている。


『私、無敵だよ。だってお母さんの面倒見てきたから、車椅子押せるし、ご飯も食べさせてあげられるし、介護とかわかるもん。それに障害者の人の気持ちわかるもん。』
と、長女がある時言った。
「そうだねぇ、滅多に障害者と共に生きるなんて経験できることじゃないし、勉強して解るもんじゃない事も沢山あるしねぇ。実践で怒られながらやってきてるから、強いよね」

でも、寂しい思い、一緒に出掛けられない思い、不安な思いをさせている。


だから、この痛みだけでも消して。



2012年8月29日水曜日

読んで下さっている皆さんへのメッセージ

少し前から、このブログのアクセス数が急激に増えだした事は感じていた。

アクセス数が多くなりだしたのは、ちょうど5月頃に書いた記事からだった。
ブログのアクセス数を伸ばすには、ホームページでも同じ事だが、まず検索ヒットに繋がる語句を文中に沢山収める。これが基本だ。
そして、タイトルも 『検索』 のヒット条件には欠かせない。


しかし私の場合、このブログの目的にも宣言しているように、誰かの役に立つように思っては書いていない。

その5月頃、感じたのは 「ああ、きっと慢性疲労症候群の人や線維筋痛症の人たちの体調が悪いんだな」 だった。
この疾患は、何気ない刺激に対して無意識の中で過敏状態に晒される。
いわゆるストレッサーだ。
その中でも低気圧の停滞や天候によって、目まぐるしく症状に振り回され苦しむケースが多い。
それがこの時期だったこともあって、「いま低気圧が来てるしねぇ」 と思っていた。

私がその時感じたのは、恐らく自分の訳の解らない症状に困惑して、『何でこんな状態なの?』
『どうして?』 と感じ必死で調べている人が多いのだろうだった。



でも、先日公開した記事のアクセス数が一日で100件をものの何時間で超えた事に、とても戸惑った。
自分の書いた記事を読み直し、「何でだろう?」 「どうして、こんなに一気にアクセスされたんだろう」 と考えていた。

近頃、慢性疲労症候群に於いては、疲労学会や患者会の努力もあり、厚労省が再度研究班を編成し、線維筋痛症に於いても、20年以上に及んで診察や治療をされて来られた各方面の先生方によって疲労学会の設立や研究、大会などが頻繁に行われるようになった。

それが所以で私のブログのアクセス数が、急激に伸びた訳ではないと思う。



推測でしかないが、あからさまに自分の状態を書き込んでいるからではないだろうか。
それは、ノンフィクション。
もう一つは、それだけ確定診断されず、(疑い)であったり、否定されたり、いずれも病院や医師に認められない状態で困っている人が多いことを物語っているように感じた。


誰に向けた発信でもないと言っている私から、読んで下さっている皆さんに初めて書きます。

まず、長文の多い私の記事を読んで下さってありがとうございます。
私の書く文章は、一方的で、自分の情けなさや怒り、その時の感情論が殆どだと思います。
諦めたと思えば、いや負けてたまるか、次の記事になれば、もうどうでもいい
そんな記事ばかりです。
断言的な語り口調で書いてますから、コメントのしようもない文章だと思います。

でも、これだけアクセス数が世界中から寄せられると、流石に何か役に立ててるのだろうかと思います。
自分の実態を暴露することは、自分のすべてを曝け出す事になります。
私は、こんな身体になった事を、物凄く恨んでいます。
母に
「生まれてこなきゃ良かった」
「そうしたら子どもも産まずに、娘も同じ苦しみを背負わなくて済んだ」
「どうして産んだの」
そうやって泣いて、泣いて、いま自分がこの世に居ることが恨めしくてなりません。
それでも、生きていかなければ仕方がない。
生きなければいけない理由探しなんて、もう止めました。
それは、全部苦痛から逃げるための言い訳探しにしか思えなくなったからです。

生きなければいけない理由探し=死ぬための理由探し になります。
自殺しようとしたある日、ぼーっと考えていました。
『病気じゃない人は、生きるのに理由なんて考えてないよなぁ。』
『そっかぁ、生きるのは理由は要らないけど、死ぬのは理由が要るんだ。』

そこにピンと来た時から、本当は死にたいんじゃなくて、生きたい…だけど死にたいくらいつらいって事なだけだ。そうハッキリ自覚しました。


私の記事を読むと、おぞましくなったり、怖くなったり、決して前向きになれるようなものはないと思います。
仕方がないんです。
実生活や現実に、何も、ほんと、何も、前向きになれるような出来事がないんですから。
早期段階なら治る見込みあり
という記事やPS値の軽症な人の記事をたまに見かけると、私には手に入らないものだな、と諦めるしかありません。

それでも、私の記事を読んで何か役に立っていますか?
妙な言い方ですが、私は慢性疲労症候群と線維筋痛症になって、滅多に人が経験しない 『稀』 なことを沢山経験する結果になったことは、人より多くの病気や障害を知ると思っています。
突然起こる理解出来ない問題も、勉強になったと後で気付きます。
医師たちは、皆、『何が原因なんだろう』 と困惑するばかりですが、結局辿り着く答えは、いつも慢性疲労症候群だから。線維筋痛症だから。

生涯、残念ながら解明には至らず、埒が明かないまま終わってしまうかもしれません。
それは、私を核にして、私の家族らの協力を得て、生い立ちや生育歴、様々なデータを集計し、突然変異ではなく何らかの因果関係を見つけ出さなければ解明出来ないような多分野の問題があると思うからです。
でも、それはきっと人体実験にも近いものでしょう。
本音は、それでも構わないから、何とかしてくれという思いがあります。
無理なことです。



患者さんや家族の方にとって、何か参考になっているものがあれば幸いです。
でも、誰も慢性疲労症候群にも線維筋痛症にもなって欲しくないです。
できれば、こんな病気の確定診断なんて、誰もされずに済めば良いのにと思えて仕方ありません。
社会保障や経済問題、治療の問題や必要性、それらがあって、一般社会生活も送れない人には、確定診断されることは大切な問題なのはよく解っています。
でも、自分みたいな思いや苦痛を味わう人が多くなっていくのは、嫌です。
それは、自分との折り合いを付けていく戦いの始まりだからです。
人並み以下の低いレベルでの 『ささやかな幸せ探し』 だったり、『楽しみ』 だったり。

最後に、
確定診断を受ける理由に、世間に対して 『怠け病じゃない』 証明をした後、自分しか残りません。何も、残りません。
どうぞ、確定される前に、その先に待っている問題、課題を勉強して覚悟を決めて下さい。
病気によって、自分が押し潰されます。
それは世間との戦いより、もっとつらく、長い戦いなります。

こんなメッセージしか書けなくて、すみません。



2012年8月22日水曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症患者の姿と日常


今日Twitterのあるフォロワーさんの記事で、世界初のCFSが死亡診断名のソフィアさんの映像を観た。

そのフォロワーさんは、ベッドサイドに置いてあるペットボトルの姿は自分も同じだと呟かれていた。


私が感じたことは、恐らく重症化すればするほど、皆同じ様な姿で居るのではないだろうか?と云う事だ。
今から4年以上前になると思うが、埒の明かない病状と対処療法、それに加えて益々悪化する日常生活を何とか打開したいという思いが強くなり、米国のCDCに直接国際電話を掛け、CFSに詳しい専門医あるいは担当官と話がしたいと言った。
CDCから案内され、とあるニュージャージーの医師であり、CDCのCFS対策室勤務のドクターの電話番号を教えて貰った。
すると、詳しい事がしりたいので何か資料はあるかと尋ねられたので、ビデオレターを作成していると伝え、出来上がったら送ると話した事があった。

それから、子どもに具合悪く起き上がれない状態の自分の姿や、トイレに立つ姿などありふれた日常生活のありのままをホームビデオで撮影させた。
その最初に、パソコンで打ち込んだ英語のメッセージを撮影し、それから自分にカメラを向けて、片言ながらも自分の言葉でメッセージを話す姿を撮影した。


ベッドから起き上がる時は、布団や枕に一度顔を伏せ、その後上半身を起こそうとしても力が入らないため、まず足を両腕でベッド下に降ろさなければ起き上がれない。
歩くにもあっちの棚、こっちの壁と何処かをつたっていなければ身体を支えられない。

水を飲むにも握力がないために、陶器やガラスのような重い物は持てず、プラスチック製の持ち手のないコップを子どものように両手で掴まなければ持てない。
どこかのファストフード店で買ったストロー付きのコップをよく応用していた。
現在は、マイボトルブームのお陰でプラ製ボトルにストローを差してベッドサイドに置いている。
勿論、喉が異常に渇くのでペットボトルに水を入れて置いてあるし、あまりに辛い時にはポカリスウェットのボトルを置いている時もある。

眠る時はソフィアさんを観て、「同じなんだなぁ」 と思ったように、幅の広い伸びてしまったパイル地のヘアバンドをアイマスクの代わりにしている。

日常着のになっているパジャマ選びが非常に難しい。
軟らかい、体のどこも締め付けない綿素材の物を着ているが、そのパジャマの重みで身体がだるくなるので軽くて、薄地の物になる。
線維筋痛症も合併している私は、洋服の重みや素材にひどく痛みやだるさを感じてしまう。
また、同じ姿勢で寝ていると、自分の体重の重さで体中が痛みに襲われる。
だから、寝返りばかり打って、筋肉痛のひどい時は、体中サポーターで圧迫し、更に自分の腕や足を捻って絡ませなければ、どうすることもままならない。
椅子に座っている事も同じで、同じ姿勢で居ると、お尻や太ももの裏側に負担が掛かって痛む。
それを私は、 「イワシよ、私はねイワシと同じなのよ。」 と表現する。
イワシは、海から水揚げされた途端、自分の体重の重さで死んでしまう。その時体から鱗が剥がれ落ちてしまうのだ。

結局、寝ても起きても、落ち着いて居られない。

痛みやだるさから、どうしても前かがみの方が楽になって足も体操座りで丸まっているような状態で、背骨が曲がってしまう。
母に、 『あなたの歩く姿っておばあさんみたい』 と言われる。
会う度に、猫背や背骨の中心が曲がる姿が年々ひどくなってきていると言われる。

それでも、学生の時にバレーボールをやっていたお陰で、ストレッチを知っているので一日一度はなるべく行うようにしているのと、あぐらをかいて、足の裏を合わせて膝を床に着ける股関節体操をずっとして来たこともあって、相撲の四股の姿勢は出来る。
少し、身体の痛みが強くなってくると、そうしてトレーニングをして筋肉が固まってしまわないように自分で訓練をしている。

食事の時は、箸が上手く持てない時にはフォークやスプーンを使うが、結局は赤ちゃんのような持ち方でしか食べられない。
理由は指が上手く動かないからだ。

大抵、具合の悪い(この疾患のレベル上で)時は、まず末梢神経の働きが上手く行かず、その次に大きな筋肉、例えば太ももやふくらはぎ、二の腕、胴体などの筋肉の動きが鈍くなるから何もかも動きが悪い。
その時首がすごく痛い。顎の骨やえらの部分の筋肉も痛い。
医師はリンパ節が腫れているから、痛むんだと説明してくれた。


そんな姿をビデオに収めた。
しかし、いつまでそれを記録して、それをCDCに送って、その後どうしようかと考えた。
本当は、渡米して少しでも解決の道が開けたらと思ったが、医療費や滞在費の莫大な金銭が必要な事や軽快する見込みの薄さを考え、私は断念した。



そうこうしている内に、重症薬疹になりそれどころではなくなってしまい、杖をつかなければ歩けなくなり、終いには車椅子を娘に押して貰わなければ動けなくなってしまった。

それから暫くして、cfs nonというサイトが立ち上がり、 篠原さんがまだ支援者の方と少しづつ活動され始めた時期だった。
その後 『I Remember Me』 というビデオを知った。
勿論、YOUTUBEにも概要は紹介されていたので、少し観たが、まるで自分が撮影した姿そのものだった事がとても辛くなってしまった。


今でも撮影したビデオレターをどうしようかと悩んだり、見返す度に 『真実の姿』 を客観的に観ると泣けて泣けて仕方がない。


現実も真実も理解しているとはいっても、それでも受け入れがたいのかもしれない。
だから、今日Twitterで紹介されたソフィアさんの姿は、あまりに真実を暴露的に観たような気がして、やっぱり知りたくないと思ってしまったのが本音だ。

そして、冒頭にも書いたように、恐らくこの慢性疲労症候群の患者の誰もが同じ様な姿で、同じ様な動きの中、精神的にも同じ様な思いの中で日常生活を送っているのではないかと思ったのだ。



私は、その4年程前から首と背骨に痛みや鈍痛をずっと感じている。
主治医から神経内科に行って診て貰ってくれと言われ、行ったのだが首の骨(頚椎)の4番と5番が狭くなっていると言われた。しかし何も出来ないと言われた。
背骨は丁度、胃の後ろ側(身体の真ん中)が痛んで、押さえると痛む骨が曲がっているのが解るが、どうすることも出来ないのだろうと思い、整形外科にも神経内科にも行っていない。


このブログで、『慢性疲労症候群と線維筋痛症の結末』 と記事を書いておきながら、無責任かもしれないが、意図的に検索ヒット数を伸ばすためにセンセーショナルなタイトルを付けた気は更々ない。
ただ、自分の体験や経過を率直に書く事で、記録に残しておこうと思うだけだ。

読み手にとっては、哀れんでこんなにひどいと訴えているように感じるかもしれない。

それでも、私は自分を哀れんで悲しんで一日を終わりたくないと毎日、毎晩思っている。
でも、他の患者さんの自分を鏡に映したような姿を見たり、知るのはつらい。

うつになるなと言われても、無理な話だ。
この生きる現実は、生きる屍そのものなのだから。

2012年8月11日土曜日

やっと止まった

人並みの 『夏休み』 のライフイベントを過ごしてから、やっと動き回るのが止まった。
何ヶ月、こんなに動いてきたのだろう。

止まったきっかけは、全身の疲労感と関節痛、脱力感、そして原因不明の手の甲や指、腕に拡がる水泡様丘疹だ。

大抵、疲れが溜まりきった後に皮膚病が出てきて、だるさや痛みが強烈になる。
皮膚病と聞くと、痒みを想像するだろうが、実は炎症によって痛みの方が強い。
ひとつの症状が、痛みのきっかけを作り、気付かぬ内にひどく疲れ、動けなくなる。


そうして、考える事も動く事も私は、やっと止まる。

結局、すべての充電分のエネルギーを残り微量まで使い果たすまでは止まれないんだ。
そう思った。


頓服で試しに10回分貰った薬は、その時飲めば3日くらいは、健常時とあまり大差なく動ける。
でも効果が切れれば、元に戻ってしまう。
一般の人が飲むドリンク剤と同じような意味でしかない。
それは麻薬にも似て、飲めば覚醒し、毎日常在として使えばやがて効果がなくなり、量が増える。
量を増やせば、結局また過剰反応の後、効かなくなってしまう。



慢性疲労症候群なんて、動けるようになるまではただじっと時期を待つだけ。
動けるようになったら、動き過ぎないように制御しつつ、動き過ぎて失速するまでやり続けるだけ。
こんな事の繰り返しでしかない。



止まってしまうと、またベッドの上。
身体をどうやって収めれば楽になれるのか、ゆったりと横になれることはない。
棒人間みたいに、両脇を腕をまっすぐに固めて、足もクロスしてまっすぐにしているのが一番楽だ。

寝る時は、死体の様に胸の上に手を組んで真上を向いていると、眠りに入っていく。
起きた時は、布団がくしゃくしゃになっていて、枕もどこかに行ってしまい、一体寝ている間にどれだけ寝返りを打っていたのだろうと思う。
お陰で、一度眠るたびにベッドメイクをし直す。

寝汗びっしょり。
髪の毛くしゃくしゃ。
何をして一日終わったのか、時間ばかりが過ぎていく。

私は止まって、時計はずっと動いている。

2012年8月7日火曜日

成せば成る~この世は外界のストレスありき

主治医に入院が必要だと言われて、紹介状を書いてもらい病院に要約行った。
しかし、初診で問診を受けた医師は、とてもクールでスマートな人だった。
彼は、紹介状の内容は何一つ理解出来ないと言い、私が何を必要とし、与えるべきものは何か
それを会話の中から読み取ろうとしていた。

一問一答、即答をする私に、思考力も判断力も記憶力も鈍くないと、まず悟らせた。
その次、入院に関して自分が懸念している問題を説明した。
私が 「要するに言わんとしているのは外界のストレスから開放されて、入院環境に適応してしまうって事を心配されているんですね?」 と聞くと、『その通り』。
私は、「それは絶対にない。何故なら私はこの病院に長く入院するつもりで来ていない。絶対にない。」 と言い切った。

最後に医師が私を試した。
『じゃあ、個室○○円しか空いていないから、そこにまず一週間で、どうですか?』 と提案。
最初から一週間で幾ら掛かるのか計算し、それを払ってでも入院するメリットとデメリットを即座に考える事を医師は知っていた。
勿論、私は医師が何を狙っているのか見抜いていた。
自分の正直な気持ちに向き合い、「ならば、入院しません。」 少し考えてから答えた。

その時、ピンと気付いたのが
『この世は、外界のストレスと共に在って当たり前』 その一言だった。


とっくに、解っていた事だった。
どんなに環境を変えた所で、またその変わった環境によってストレスが増え、適応せざるを得ない。
この世の中に、自分にとって何もかも居心地の良い、ストレスのない世界など何処にも在る訳がない。
みんな勘違いをしている。

別に慢性疲労症候群や線維筋痛症に限らず、病人、障害者、健常者、すべて人間は何かしらのストレスに晒されている。
そのストレスに対する感受性の強弱や適応の仕方が、人と少し違い、日常生活を送れない程の病的な心身ともに疲労や痛みを引き起こしているに過ぎない。
避けられる嫌な問題(ストレッサー)があるなら、上手く避けていけばいい。

私の場合、自分では感じない無意識のストレッサーは、光、温度、音、動き、目に見えない電磁波に対して特に過敏だ。
外出する時は、10代の頃からサングラスをしていたし、何時寒気に襲われるか解らないから上着(カーディガンやパーカー)を持っていた。
カバンには、チョコレートと目薬、リップクリーム、頭痛薬が常備されていた。
記憶が悪くなりだした20代の時、母が小さなリングメモとボールペンを持っていると良いよと教えてくれ、カレンダー式の手帳をプレゼントしてくれた。
鬱が強くなった時に、『日記を書くといいよ、後で自分がどんな事を感じていたのか読み返して思い出せるからね。そこに自分の思いを全部吐き出しなさい。』 と教えてくれ、高校生の時から何十冊も日記を書いてきた。

そして、ある日、母が日記を書くのを止めなさいと言ってきた。
思いを今度は口で吐き出せと言うのだった。


今から思えば、母が指導してきた行動療法や心理療法、認知行動療法は本当に正しかった。
負けず嫌いの私の性格を利用して、『あなたはチキショーって思った時が伸びる時だから』 とわざと皮肉を言ったり、動けないと情けなくなっている私に無理矢理、畑仕事をさせてみたり、ガーデニングを教えたりと恨まれる事も嫌われる事も何ともいとわず、私を動かした。

事の発端は、自殺未遂で左腕(上腕下部)を剃刀で切り落としたことだった。
6時間の手術の後、一ヶ月入院していたが、退院しても指は動かないかもしれないと言われた。
そこで、母がリハビリのためにガーデニングをやらせたのだ。
初めて触る土の感触、草花の香り、流す汗に無我夢中で黙々と仕事のように従う私を覚えている。
動き出した、私の心と体。とても楽しくて、夢中になって世話をし、朝5:30に起きて、花と畑の世話をし、朝食を作り、子どもたちを保育園に送り、帰ってきてまた庭仕事の続きを半年続けた。
私の腕は、切り落とした部分の神経感覚はないが、普通に動くようになった。
しかし、後に掌を切り裂いた事で、今では左の薬指と小指は縫合のために引き攣れ、神経感覚は全くない。

どれほどの体中に切り傷が残っているかと言えば、『首』と名が付く箇所にためらいでない裂傷がある。
切れていないのは、左の足首だけだ。
胴体も、まるで刀で切られたのか、切腹でもしたのかといった大きな傷がある。心臓を刺して、理由は知らないが、手術で必要性があったからなのか、そんな自分ではやっていない傷もある。



それほどまでに、死にたいくらい耐え切れなかった。
死にたかった。


でも、命や人生を見つめて、CFSとFMSにどれほど追い詰められても、私は死なないと思った。
命は、人が考えて解るものではない。

入院を断って帰り道に考えた事は、病死であれ自殺であれ 『死』 に変わりはない。
それが寿命というものだ。
死因を問題視するのは、生きている人間だけなのだ。
病死は、病気によって臓器が蝕まれ死に至る。
自殺は、精神が蝕まれ死に至る。
病死と自殺は、どちらも肉体と精神が蝕まれた結果、もはやこれまでと生命力を失って死に至るものだ。


私にとって、もはや何が理由で死に至るのかなど、どうでも良い。
生きる屍で生きてゆく事も、温存療法をしながら怯えて生きる事もうんざりした。
やりたい事ができないと嘆いて一生を過ごし、訳の解らない内に死ぬのもうんざりだ。

だから、3泊4日の家族旅行に行く事にした。
子どもたちは、私の面倒を見切れないかもしれないと不安がったが、そんな心配は要らない。
自分が楽しむ、みんなで楽しむために行きたいか、行きたくないかだけ考えればいいよ。
そう言って、片道100kmの海へ行き、犬も連れて、何倍も時間が掛かったが帰ってきた。


コテージで20年ぶりに使ったパーコレーターで煎れた珈琲は、すっごく美味しかった。
月を眺めながら、ビールを飲んで娘の青春談話を語り合ったひと時がゆったりしていた。
海水浴場で犬を 『初めての体験』 をさせたのも楽しかった。
コインシャワーの使い方を教え、犬も洗ってさっぱり、自分の犬が何処の場所でもお風呂が平気な事が解り、これは助かると経験したのも私にとって良かった。
逆に、人間の方が適応力がないことに呆れた。
たかが、食事や、風呂や、施設の設備、シャワーの使い方くらいのことで、アタフタして 頭の中で 『大変だー!』 と慌てふためいている姿を見て、こりゃ、天災が起きて漏れなくPTSDに陥るのがオチだわと感じた。
気持ちがバタバタして、それに疲れて苛々して、楽しめなくなる。


知らない世界、知らない出来事を楽しむより、計算しようとする辺りがいかにも現代病の様に、私の目には映った。

それでも、私は人並みのライフイベントを送ったのだ。
『夏休み』


帰宅してから、私の両手足は激痛に襲われ、感覚もなくサポーターだらけで締め付け、身体を丸めて、ソファーに横たわって居るしかなかった。
トイレに目を覚まし、ヨタヨタ歩き、床に置いてある物に足を引っ掛け派手に転んだ。
行きも帰りも。
私は、「手首折れたかしら?」 と思いながらもイテテと這い蹲りながら、自分の姿に笑えて仕方がなかった。
まるで、90過ぎのおばあさんになったみたい。
笑えて、笑えて。

2012年7月20日金曜日

何も解らない

疲れや痛みがひどくなってから、記憶力も思考力も判断力もすごく悪くなっている。

自分がどうしたいのか、どう答えれば良いのか、何を選べば良いのか
何も解らない。
支離滅裂。

それなのに、片付けや掃除、模様替えばかりしている。
最初は理由が理解出来ず、動くのが辛く、起き上がれないと思いながらも 『起きなきゃ』 とやっとの思いでベッドに腰掛ける状態なのに、どうして私は一日中動き回ってるんだろうと考えてた。


やっと気付いた。
自分の頭の中が整理できないから、身の回りだけでもきちんと整理整頓したい
そんな強い思いが私を動かしているんだ。

それでも、やっても、やっても、止まらない。終わらない。

具合の悪さで寝込むのが、大嫌い。
何も出来ないで一日が終わってしまうのが、大嫌い。
だから、何か一つでも人並みに仕事をしたと思って、寝たい。
それが今までと、現在の私そのものだ。



でも、躁転なんかじゃない。
脳の思考が支離滅裂でまとまらないから、行動も支離滅裂になっている。
確かに、家の中を片付けるのは、やりっぱなしで片付いていないからやるだけ。
模様替えをしたのは、ゆっくり休める場所を作りたかったから、やっただけ。
それなりに理由があるからやっただけなのだが、限度を超えていると思う。


明日は寝てよう。
そう思っても目が覚めてしまう、起きても、また寝ていたいくらい具合が悪い。
でも3時間ぐらい経って、朝の薬を飲むための水を注ぎにやっと行って戻ってきたら、動き出してしまう。
お陰で全身筋肉痛や関節痛が起きているのに、その痛みすら、もう今では感じなくなってしまった。


何も感じない。
つらい
痛い
だるい
暑い、寒いの温度
お腹が空く
何も感じない。


自分で自分が解らなくなった。
何をどうしたいのか?
何をどう感じているのか?
何も解らない。


いつ、誰と、何を話したのか?や、自分が何をしようと思ったのか覚えていられない。
過ぎていく時間の感覚も解らない。
母と電話で話していて、『もう○○時間も話してるから切ろうか』 と言われて、「ああ、そうなのか」 と思うだけで、実感がない。

まるで、DIHSの時、プレドニンのパルス療法を受けた時の様な感覚だ。
動ける筈がないのに、一日中動き回って、歩けなくなるまで自覚できなかった、あの時と同じだ。
そして、憂鬱感がすごく強くある。
ただ唯一解るのが、疲れたって事だけ。
何もかもに疲れて、身体も疲れている事しか理解出来ない。
あの時と同じだ。
苛々して、疲れていて、一日中本当は横になって居たくて仕方がないのに、何もコントロール出来ない。




食べなきゃいけないのに、食べようと思わない。
子どもに食べさせなきゃと思うから、自分も食べる。
でも体重は大して増えない。
何かが壊れている。

病気が治ったからなら、それでいい。
治ったのなら、真っ先に仕事をする。
現に毎日、仕事をしようとしている。
今から半年、このまま動いていて何の支障も出なければ、治ったと云う事で、本腰を入れて仕事を健常者と同じ様にしようと思う。
本心は、今からすぐにでも、そうしようと、そうしたいと思っている。
でも、こんな事は一時的な状態に過ぎない事を私は覚えている。

たったの一ヶ月や二ヶ月、動けてもその後また寝込んで、子どもに面倒を診て貰って何ヶ月間も負担を強いての繰り返しだったのだから、確信が持てるまでは様子を見るしかない。



何日か前、娘に 「もう、つらいのも誤魔化して時間稼ぎしているのも嫌だ。好きな事だけしていたい」 と泣いた。
でも、その好きな事が何なのかも解らなければ、やりたい事も解らない。
ただ、やりたいのは当たり前の事ばかりだが、本腰を入れてやりたい事だけは解っている。
きっと、そんなことは到底出来ず、到達する事すら出来ない。
それが証拠に毎日通う事自体が不可能だ。


慢性疲労症候群と線維筋痛症を発症し、確定診断された時の日記を見つけ、読み返した。
私が現在、思っていること、やっていること、悩んでいること、すべて同じ文章だった。
こんなに悪くなるとは知らなかった時の自分。
そして知った自分。
目指す事に到達出来ないと解っているのも当然だ。
『赤ちゃんが生まれたら』 や 『今はまだ赤ちゃんを作るのは無理』
そんな文章に驚いた。

そんなに長い月日が経っていたんだ。
ずっと慢性疲労症候群で線維筋痛症で、訳も解らず、ただひたすら生きてきただけで、あれから何年経過していたのかも実感がなかったから。



失認、失行。そのもの。
子どもたちが、すごく不安がって、戸惑っているのが分かる。
言葉にも態度にも出さないように、私を不安がらせないようにしているのがよく分かる。

平静を装い、今まで見た事もないような元気そうな私の動きと、明らかに具合が悪そうな私の姿に怯えているのが手に取るように解る。
それでも、止まらない私。
だから、子どもを近づけないようにして、自分の好きなようにして良いよと言っている。


もうダメかな。

2012年7月10日火曜日

通院しようと思えない、思わない心境の変化

慢性疲労症候群、線維筋痛症になって、この30年間で初めて通院しようと思わなくなった。
どうしても体調が悪く、起き上がれず受診予約日に行けないことはよくある。
そんな時は、電話して予約を取り直し改めて通院する様にして来た。

大学病院では、2~3ヶ月に一度か状態に応じて1ヶ月に一度のペース。
専門主治医と精神科は、1ヶ月に一度が定例だ。
ましてや精神科は30日分の処方が限界のため、必然的にそのようになるし、途中で状態が悪くなっても予約日までは受診出来ない体制を採っている。


内科で処方される薬は、行けなかった時のために余裕を持って出されるが、精神科は大型連休や年末年始のみ5週間分まで出して貰えるが、それ以上は大量服用の危険性や依存性を加味し処方されない。
だから、どんなに体調が悪くても予約日には何としても行かなければ、薬が足りなくなってしまうため、這ってでも行かなければならない。
頼める家族が居る場合には、代理受診として薬を貰ってきて貰えるが、居なければ諦めるしかない。


いま私は、増悪状態で動けない。
先日、精神科の予約日で何とか時間に多少遅れても良いから行かねばと、這い上がり途中まで行ったが、貧血と脱水症を起こし、気力がなくなってしまった。
すぐ病院に電話して、「今向かっている途中なんですが倒れてしまって行けそうにないんで」 と、とりあえず連絡だけは入れなければと思い話をした。
受付の方が 『では、予約を取り直しましょうね』 と言って下さったので、「薬が明日までしかもうないんですが、明日すぐの状態で予約取れますか?無理ですよね?」 と聞くと、『大丈夫です、取れますよ。では○○時でお取りしておきます。』 と初めて一週間後ならとかではない、敏速な対応をして貰った。
この初診から何年間で、初めての出来事に驚いた。

しかし、翌日起き上がることも電話することも出来なかった。

昔の私なら、翌日にでも事情を説明してお詫びし、再予約をお願いしていた。


しかし、連絡もしない。行かねばとも思わない。
薬がなくなっても、何とも思わない。


随分前から行きたくないと前日に愚痴をこぼしていた。
その本意は 『疲れるから』 と 『説明するのが面倒くさい』 だった。
相変わらずが続く中で、マイナス方向のグラフの大差ない上がり下がりを説明しても、何も埒が明かず、対処も出来ない事に嫌気と無駄を感じていたからだ。
それは、通院している病院全部に対してだ。

ところが、今回は内科は勿論だが特に精神科に行く気が起きない。

どんなにつらいと説明しても、『あなたは自分で対処できるから大丈夫』 と言われてばかりで、処方も変えようとして貰えない、しかも専門主治医が入院の必要ありと紹介状を書いても、対応しようとしない。
この5ヶ月間で食事をまったくしなくなり、10kg減った。
今までで初めて、一番体重が落ちた時の数字を遥かに超えて減った。
生まれて初めて、成人してから見る数字だ。
それを食べなくなりだしてから1年以上、説明してきて、この5ヶ月間訴え続け、その上内科から早急に対処の紹介状が出されても、『大丈夫』 とされた。
結果、寝込んでいる。


だから、もう行きたくない。
どんなに訴えても対処してもらえず、私を過信しているのか間接的に受診拒否しているのかは知らないが、過信しているとずっと思っていた。
何を話しても無駄。
行っても無駄。
それなら、もう薬も要らない。



自然に死ぬのを待っていれば良いと、思う。

誤魔化し、まやかしの治療。
時間稼ぎの人生。

最期の時間、私の望む 『当たり前のことを当たり前にやる』 生活をして、やり残している好きな事をやりたい。
本当に心から、そう思う。

だから、もう病院には行かない。

何も未練はない。

2012年5月31日木曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症の結末その2 心不全の兆候



今年の2月に救急車で運ばれた。
その症状は、慢性疲労症候群、線維筋痛症とは別だ。
昨年2011年11月頃より続く、腹痛のために年が明けてから症状が悪くなり、消化器科に受診した。

何の前触れもなく、突然みぞおちから左背部へ、まるで刀で突き刺されたような激痛が2,3日おきに起きた。
兎に角、口も利けず、左側を下にしてうずくまって、その激痛に耐えること一時間あまり。
その後は、何事もなかったかのように痛みは消えてしまうが、意識が朦朧としてそのまま眠ってしまっていた。
そんな時、声も出せず誰かを呼ぶ事も出来ず、ある日は家人が誰も居ない時だったりして、ただ耐えるだけで誤魔化していた。

そんな時、娘と談笑していた所に、その症状が襲った。
娘は、『お母さん、病院に行って診てもらったほうがいいって。絶対何かおかしいよ。』と言っていた矢先の事だった。
すぐさま、娘が救急車を呼んでくれ、かかりつけの大学病院に運ばれた。

その一週間前に消化器科に受診し、胃カメラの予約の入っていた私の電子カルテを見て、
医師は 『んー、ちょっと様子見ましょうか』 と言って、声も出せずのた打ち回る私に、現状を問診してきた。
答えられるだけ答えたが、採血をしようにも血管が細くて針が通らない。
動脈血だけ採取し、血中酸素濃度だけ検査した。
その時の私の血圧や脈拍は、自動測定器が警告音を鳴らしてばかりいた。
最高血圧76、最低血圧45、脈拍48~50、SpO2ー99、体温36.8℃だったのを覚えている。

看護師が様子を診に来るが、娘に 『お母さんって、いつも血圧低め?』 と聞いて、娘は 「そうですね」と答えていた。
しかし結局6時間もの間、救急外来のベッドに横たわっていたにも関わらず、腹部CT、腹部・胸部レントゲンを撮影しても何の手立てもされずにいた。
その後、『どうする事も今は出来ない。主治医の直接診察がないと私たちでは何も出来ない』と言われ、帰宅する事になった。


どんなにバイタルサインが異常を示しても、ブドウ糖の点滴一つ打てなかった。
私はその日も、前の日も何も食べていなかった。


それから、自宅で度々起き上がれなかったり、腹痛が起きた時、血圧と体温を測って、写真に残すようにした。
それを公開しようと思った。













写真に写っている日付を見ても、わかるように低体温と低血圧を起こしている。
こんな時は何も出来ない。
そして上半身を枕やクッションなどで支え、起こしていると楽だが、しばらくすると頭を低くしたくなる。

みぞおちの辺りに何かしこりが触れるのだが、医師はこれといった説明はしてくれない。


私が、心不全の予兆を感じたのは、最後の写真2012年5月30日だ。
この一週間くらい前から非常な倦怠感と筋肉痛があり、激しい頭痛で喘息を起こす事が解っていながらアスピリンを飲まずには耐えられなくなっていた。
アイスノンや氷嚢を至る所にやって痛みを抑えようとしても増幅するばかり、その痛みで涙が勝手に出てきて、そのまま朦朧として眠りかかっては、ハッとするが目が閉じて行った。


この血圧計には、脈拍の鼓動が表示されるようになっている。
そのサインが何度も消え、不整脈が起きているのが解る。
元気なときには、計る時に腕を空気で圧迫するのもそんなに強くはないが、こういう数字や体調の時はいつも痛いくらい圧迫し続け、測定不能のエラーサインが何度も出る。
繰り返し自動で圧迫し測定しようとする。
それでやっと計れた数値がこのように現れる。


多分、こうやって心不全が寝ている時にも起きているのだろう。
人の臓器は筋肉で出来ているのだから、自覚症状もなく、ただ病的な 『痛み』 と 『だるさ』 の果てに何故心不全が起きたのかも解明出来ず、急性心不全で死ぬのだと思った。




私は最近になって、やっと気付いた。
医師たちが手の施しようがないと言ったのは、見殺しにされているのと同じ状態なのだと。
原因も対応も何も出来ず、わからないと言われた、あの2月の救急外来の対応が物語っていたのだと、思い出し、ようやく 『正当なる見殺し』 をされた事に気が付いた。

そして、私は今毎日を精一杯生きている。
明日死んだとしても何も後悔はない。
ただ、当たり前に、ありのままの今日の自分と生き、言い残す事がないよう、やり残す事がないよう、伝えられるうちに伝え、やれるうちにやれる事をやり、当たり前の日常生活を過ごしている。
すべて、ありのままの私なりに。
不安も何も消え、「これが最後の賭けだから」と思った日から怖いものがなくなった。

何だろう、この晴々とした感覚は。
自分なりに自分らしく思いっきり、毎日を生きているような気がする。
そして今まで自分の病状をネット上で公開しようとは絶対に思わなかった私が、こうして書き残そうと考え出した。


2012年5月18日金曜日

CFS,FMSの抑うつと躁転

慢性疲労症候群と線維筋痛症には、抑うつ状態と軽躁状態が存在する。
生活の中で、年度替りや何か忙しい状況になった時、今まで眠っていた脳が目覚めだす。
それは誰しも同じなのだが、この疾患の場合、過剰反応が起きてしまう。

忙しさに着いて行くのがやっとの思いで、最初は動くのだが、一旦動き出した脳は過覚醒を起こし、止まってはくれない。
それが、軽繰状態や繰転と言われる状態だ。

どうなってしまうかというと、

  • 疲れを感じなくなる。
  • 次のスケジュールを一日中追いかける。
  • 普段の思考力や判断力、集中力の悪さが、一気になくなり聡明になる。
  • 休みたいと思いながらも、休まない。
こんな感じなのだが、過労死と言われる状況が自覚出来ていても自分では止められない。


私は、この繰転を逆に利用する。
元々、仕事柄忙しい事にも慣れていたし、段取りもきっちり取って不手際の無いように働いていたこともあって、身体で覚えているため、動ける自分に不自由を感じなくて済むからだ。


動くだけ動いて、やりこなすだけやった後、予定が入らなくなりだす。
その時は、まだ頭も身体も神経は鎮まらない。
その後だ。
いつも同じように、突然起き上がれなくなる日が来る。

「とうとう、来たな」
ただ、そう思うだけで、何も感じない。

それからは、トイレに行くのもやっと、水を注ぎに行くのもやっとになる。
歩けない、動けない、口も利けない、手も動きが悪い。寝たきりになる。


元々、食欲が無かった所へもってきて、食事を考えたり、何かを買いに行こうと考えるだけで
一気に食欲は失せて、何も食べなくなる。
そうなるまでは、一日一食は食べていたのが、何も食べなくても平気になる。
これが摂取障害と言われる特徴だ。

度重なる薬疹のせいで、ステロイドによる脂肪沈着の後、こんな経過で食事を摂らなくなって
食べても痩せて行き、更に食べなくなって痩せた身体を診察して、
医師は、『丁度いい体型と体重でいいね~』なんて言う。
私は何も言い返さない。
それを誤診と言い、ドクター・ハラスメントって言うんですよと思うだけだ。

摂取障害の体型は、異常な痩せ方をしている。
気味が悪いほど、骨が浮き出て、静脈が青白く浮き上がっている。
どこが、何が丁度いいのか理解できない。



以前は繰転の後、怖いくらいの鬱が痛みとともに襲ってきていたが、もう鬱に襲われなくなった。
それは、自分との付き合い方を会得したからだ。
病気である事を考えない。
痛みは感じても、病気である事自体をそうでないことにしてしまう。

要するに、事実を全部否定してしまえば、何も異常は起きていないことにしてしまえる。

そうして、感情は浮き沈みしなくなるのだ。
どんな耐え難い痛みに襲われても、寝返りが打てなくても、眠れなくても、薬が使えない私は
そうやって、生き延びるしかない憂鬱な夜を毎晩、何十年も味わってきたのだから、仕方が無い。


麻薬で痛みが消え、ステロイドで繰転し、当たり前のことを当たり前に出来るのなら、
本来の私の能力通りに生きられるのなら、いくらでも利用してやりたいと何度も思った。

でも、上手くしたもので、何にも使えない私はじっとして、感情的にならない方法を得た。
間違っているかもしれない。
それでも、誰にも理解できず、誰からも教えて貰えない私が考え出した
『前向きに生きる方法』なのだ。


事実を否定する。
しかし、真実は決して誤魔化さない。

2012年3月9日金曜日

生きる目標が短くなってきた

最近、生きる目標の日にちが短くなってきた。

人は、10代、20代の頃は5年、10年単位で目標を決めたり、振り返ってみたりする。
しかし、私は10年前を思い出すには少し遠く、5年前では短すぎるような気がする。
目標は、5年後や10年後に定めるのは不可能で、想像も付かず、予定も立てられない。
せいぜい長くて1ヶ月、一日を生きるので精一杯の私が立てる目標は、あと一日、後二日そんな感じだ。


無理だといって何もしなければ、それも一日。
でも、それが嫌でやり残したくない。
だから、やろうと思ったことや、やりたいと思ったことは、後から後悔したとしても構わないという思いが更に強くなった。

本当に破滅するかもしれない。
そんな大それた行動を起こす訳ではないが、生活の安定や淡々としたリズムを崩すような問題が起きても構わない。


明日終わっても悔いが無いようにしようと、してる。

そんな自分がよく解かる。

嫌だと思えば、遮断する。
電話が嫌いだから、嫌な相手からの電話を着信拒否にする。
またほとんど、音を消音にして、気が向いた時に確認して、必要だと自分が思えば掛け直す。
会いたくない、話したくない、行きたくないと思えば、断る。

随分、自分の意思に忠実になった。

別に自己中心的でわがままなことをしてるのではなく、やるべき優先順位を厳選して選択してると云った方が具体的だ。


関わりあいたくなければ、無視する。




私がいま、成すべき事は唯一つ。
娘のために親としてやらなければいけないこと。

それと、自分が研究している事を残そうと必死で書き溜めている。



あとは、何もなく、ただ当たり前のことを当たり前にやる生活だけだ。
私には今日しかない。
すべてのチャンスは今日しかない。

何もかも、一期一会。
もう、それだけで十分。それだけでいい。

そして、昨日やっと卒業式を迎えた。
あとは、4月の入学式が無事迎えられたら、一区切りだ。

自分の道は、自分で開き、掴むしかない。
私はずっと、一人でここまで生きてきた。
支えも、頼りもなく、一人でやってきた。


人は一人では生きられないとは言うが、誰も彼もが本来、自分のことで精一杯であり、人のことなんか構ってる余裕は無いものだ。
助けが本当に必要な時、崩れそうな時、私に手を差し伸べる人間は誰も居なかった。


だから、今更頼ったり、甘えたりする方法も知らなければ、不必要。

最低限の人間関係と、必要なものだけでいい。

もう、何も要らない。

2012年2月27日月曜日

慢性疲労症候群と線維筋痛症の結末

慢性疲労症候群と線維筋痛症の結末が、どうなるのか誰にも解らない。

私に解る事は、日本だけでなく諸外国の研究者が発表してきた症例をもれなく辿るということだ。


幼稚園の頃、ひどい発疹で手足が包帯でグルグルになっていた。
それから19歳を過ぎるまで、今で言うまるでエイズのような膿漏性のアレルギー湿疹が手足にできた。
何度、大学病院の皮膚科に行っても原因は不明のままだった。
アレルギーだと、はっきり判ったのは、38歳の時重症薬疹を患った時だ。
その後、次々と襲う薬疹。
アレルギーの中に、サイトメガロウィルスが原因になっているのは、この疾患患者なら知っているだろう。
人畜共通感染症で、犬、猫から自然感染しても共生している、ありふれたウィルスだ。
私の、あの膿漏性湿疹が飼っていたペットからの感染だったことが解った。

原因不明のアナフィラキシーショックも3回起こしたことがある。
3回目の時、自分で原因が解った。
それは、友達と久しぶりに夜遊びをして、夕食にシメサバを食べて起こした。
その時の体調は、とても悪く、微熱、全身倦怠感、全身筋肉痛、起き上がっていられない状態だった。
結局、抵抗力が落ちていた訳だ。
私は、食物アレルギーはない。テストをしても、シメサバは陰性なのだ。


10歳の時、突然腎盂腎炎になった。
医師は、20歳までにゆっくり治しましょうと言って、12歳の時治った。

その頃、おてんばだった私が突然起き上がれなくなり、まるで鉛のようなだるさに襲われだした。
学校では、プールは見学、朝礼では貧血で倒れる、度々保健室で休むようになった。
遅刻や早退、欠席が増えだした。


13歳の時、あまりの症状の悪さに通院すると、医師から診断されたのは、
起立性循環調節障害、心筋障害だった。
手足は紫色になって、ひどく浮腫み、ほとんど寝たきりになって、通学も出来ない時が多くなった。
しかし、見た目にはどこも悪そうに見えず、学校では『怠け病』 『情緒不安定』 『家庭環境の問題』とレッテルを貼られ、具合悪くなって保健室に行って体温を測るが、何度計っても35.0℃まで目盛が行かず、『あなたってパーフェクトに病気になれる人ね』と嘲笑された。
当時は電子体温計がなく、水銀計だったため、私がわざと操作していると疑われたのだ。
血圧を計っても(こちらも同じく電子計はない)、80-45のように、低血圧だった。

今でも私の体温は、34.7℃だ。血圧も未だに、一番悪い時で、77-49、脈拍45だ。時に最高血圧が76より上がらない時もある。

中学はほとんど行けなかった。
『登校拒否』にされ、社会的にも戸塚ヨットスクールが注目されていた時代であり、また校内暴力、家庭内暴力が問題視されていたため、私も同類にされた。


19歳の時、ひどい下腹部痛に度々襲われた。
内科で胃カメラ、単純X線撮影、エコー、CT、血液検査を受けても原因が見当たらず、大腸造影検査を受けたが異常が見つからないため、残るは婦人科の病気だと言われた。
そして、婦人科で検査を受けた結果、子宮内膜症と判明し、2年掛かって治療をした。


20歳の時、ひどいインフルエンザに罹った。
当時はまだ、ペニシリン注射が使われており、時々風邪を引いてはお尻にペニシリンを打ってもらえば、2~3日で症状は良くなっていた。
しかし、この時は良くならず、一週間経っても起き上がれず、それから今の慢性疲労症候群、線維筋痛症の症状が出揃っていた。
あちこちの内科に行き、入院しても軽快せず、『自律神経失調症』と言われた。
私は、信じなかった。
一年が過ぎた頃、休職中にたまたま母と一緒に見たテレビで、慢性疲労症候群の特集がニュースでやっていたのを見て、『次の11項目中8項目以上、思い当たる場合可能性を疑って専門医の所へ受診しましょう』とキャスターが言っていた。

私は11項目すべてに当てはまったため、母に「私、これなんじゃない?」と言って、医師会に電話をして専門医を探し、訪ねた。
一ヶ月検査入院し、診断が確定した。

その専門医は、今も私の主治医だ。


25歳の時、出産後退院してきて、ほっとしたある日、朝いつも通りに夫の弁当と朝食を作ろうと台所に立ち、顔を洗うと目に水が入ってきて、口をすすぐと、左側の口から水がこぼれた。
鏡を見に行くと、左側の顔がまったく動いていなかった。
夫に見て貰うと、動いていないと言われ急いで脳神経外科に行くと、脳のCT、MRI検査をした結果、脳異常はなく、左顔面麻痺のベル麻痺と診断された。

今でもその感覚麻痺は少し残っており、左側の無表情や口の麻痺がある。


32歳の時、突然鼻が激痛に襲われ救急で行ったら、三叉神経痛だと言われ、神経ブロック麻酔を左目の下に2回打たれた。
その後、症状が治まったかと思ったら、急に天井や家の中がグルグル回る眩暈で立っていられなくなり、吐き気と嘔吐と頭が割れそうな頭痛が起きた。
病院に行くとメニエール病だと言われ、薬が出されたが、一ヶ月くらい症状が続いた。


小さい頃から未だに相変わらず続いているのは、外耳道炎だ。
時々症状が悪化した時は、顎も動かせない、口も開けられない程、腫れ上がる。
頭痛と併せて三叉神経痛の発作も相変わらずだ。


38歳の時、メキシチールという薬剤によって、重症薬疹(DIHS:薬剤性過敏性症候群)に罹った。
その前から、度々『薬疹』はあったのを思い出した。
36歳頃、両足の膝に膿漏性発疹が出て、もしかすると飲んでいる薬の副作用かもしれないと、自分で感じ、常時飲んでいるセデスG(SG顆粒)を止めてみたら、進行が治まり、皮膚科に行って、事情を話したら、間違いないと言われた。
重症薬疹後、すべての消炎鎮痛剤にアレルギーと薬疹を起こすようになった。

薬疹:カロナール(アセトアミノフェン)、アスピリン、バファリン、リリカ、トラムセット、モーラステープ、他湿布薬、セデスG、メキシチレン、アモバン
呼吸器障害:主に喘息、アナフィラキシー:アスピリン、ロキソニン、モーラステープ等湿布薬

それ以来、脂漏性皮膚炎もずっと続き、アルコール含有の化粧水などには、ひどく反応して火傷のような赤みと痛みを引き起こし、皮膚過敏症、化学物質過敏症、機械性蕁麻疹は日常的だ。


40歳頃から、月経愁訴が出現し始め、42歳の時、はっきりと自覚した。
身体症状は、頭痛があるくらいで、つらいのは精神的症状。
不穏、イライラ、不安、混乱、焦燥感、衝動的言動、行動が目立つようになった。


過敏性腸症候群が起こると言われているが、私は便秘症の方がひどい。
30歳代から度々、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、逆流性食堂炎、原因不明の腹膜炎を何度も起こしている。
検査をしても、ヘリコバクター・ピロリ菌は陰性、腹膜炎も原因細菌は検出されず。
嚥下障害は、油断をしていると水を一口含んでゆっくり飲み込んでも日常的に起こすほどで、呼吸困難を起こしながらむせている。

食欲はほとんどない。一日一食の楽しみと言っていた、その量も幼稚園児以下に減りつつ、今では、もう食べる事自体が疲れて、食べたくない。
食材の買い物に行って、食品を見た途端に、食欲が失せてしまうようになったのは、恐らく10年近く前からだ。
ある時には、お米を食べていて、「まるでプラスチックの粒を食べているような感覚」や、うどんなどの麺類も「まるで紐を飲み込んでいる感覚」と思ったことがあった。

流動食のような物なら何とか食べようと思ったり出来るが、最近では大好きだったおかゆも食べたくなくなった。

私は決まって、一日の始めに口にしてきたのは、ベーコンエッグとトーストかマフィンとカフェオレが長く習慣になっていたが、それも今ではカフェオレだけで十分になった。
卵とジャガイモ、コーン、お米、チョコレートが大好きだったのだが、チョコレートはほとんど食べなくなり、他の物もあまり食べたいと思わない。
私に好き嫌いの偏食は一切ない。



長過ぎる病歴を、思い出せるだけ書き出してみたが、まだ細かい部分も残っているかもしれない。
しかし、結末をどんな状態で迎えるのか、本当に研究者が発表している経過通りを辿っているこの状況だとしたら、私は死ぬのだろう。
それの原因になるのは、何かは解らない。
きっと、ありふれた菌やウィルスに抵抗できず、ある日突然、爆発的な発症をして手遅れで死ぬのは解っている。

ここまで来て関わるすべての医師から言われている言葉
『稀な重症化した状態』
『一生、治りません』
『現代医学では、手の施しようがありません』
『何もできません』

この言葉が意味する事は何なのか、私には理解できない。
手の施しようも、成す術もない、起きている異常の原因も解らない とは、どういうことなんだろう。


低体温、低血圧、徐脈、低血糖、薄れる意識、混乱、記憶がなくなる、感情が鈍くなる、何もかもが非現実的に感じる、痛みや耐え切れない倦怠感にうなされながら寝る、体の左側だけの痛みや感覚麻痺

こんな事がここ最近特に、ひどくなった。
一体、いま私の身体で何がどう起こっているのか、何も知る術がない。
すべて行き着く理由は、自律神経の乱れ。そうとしか説明されない。


いい加減決着を着けて欲しい。
死因に、癌、心不全、自殺とあるが、死因が特定できたのは何故なのか知りたい。
癌になるのを待つのか?
心不全の兆しはあるのか?
いま私は、どこを辿っているのか教えて欲しい。
何も解らないまま、こんな混乱の中で、ある日突然死ぬのは嫌だ。
結末が解っているなら、知っている事すべて教えて欲しい。

そうでないと、こどもたちも覚悟できないまま、ずっと不安の淵に立たされて行く。
そうでないと、他の家族が信じない。
そうでないと、私は死ぬに死ねず、生きるに生きられず、準備しておいてやれなくなってしまう。

前の記事に書いてあった。
『命の時計を見てみたい』

いま、その命の時計を見せて欲しい。

私が、「これが最後の賭けだから」と、ふと覚悟したのは何故なんだろう。
何かがあった訳でもなく、体調がいつも以上に悪かった訳でもなく、何気なく、そう思ったのは何故だろう。