2012年10月23日火曜日

抑え込まれてきた思い

慢性疲労症候群と線維筋痛症のために、使用してきた薬が殆ど薬疹を起こし鎮痛剤も新薬も使用出来ない。

この疾病患者なら服用していたり、薬剤名を知っていたりするだろう。

最初の薬疹が、頭痛を抑えるために服用したセデスG(SG顆粒)だった。
次に起きたDIHS(薬剤性過敏性症候群)が、メキシチールだった。
これを期に、消炎鎮痛剤は全滅し、リリカ、トラムセットもダメだった。

強度の不眠と過眠を繰り返す私は睡眠薬を使わざるを得ず、色々試してきて、アモバンという薬を3年位前に初めて飲んだ。
組み合わせで、アモバンとロヒプノールとレボトミンを最小限の単位一錠づつ試しに飲んでみようと処方された。
簡単な話、アモバンは睡眠時の素早い入眠作用、ロヒプノールは持続的睡眠作用、レボトミンは中途覚醒や浅い眠りを抑制し、完全に脳を鎮静させる作用という仕組みだ。
妙な事に、そのアモバンが薬疹を起こした。

筋萎縮が目覚めからすぐに起きて、一日中歯を食いしばってしまうと話したら、筋弛緩剤は使った事があるか?と尋ねられ、いや知らない、飲んだ事ないと言うと、レキソタンという薬を頓服で使ってみようと言われた。
楽になった。
それも何故か薬疹が起きた。

結局、安全と思われるロヒプノールとレボトミンだけになったのだが、そのレボトミンも効き過ぎるために、半分に自分で割って一ヶ月試したら十分だったと報告し、今でもその飲み方で効果はある。
抑うつを和らげるために、ソラナックスという薬を一日3回飲んでいる。
私は、SSRI,SNRI に対し不穏状態があるため、飲んではいけない。
最初から、SSRI は嫌だった。
飲むと動悸や不安感、焦燥感があって、自分についていけないから嫌だと医師に話して、止めることになったのだが、尽く薬疹が起きるために、中止と再開を繰り返した結果、不穏状態が大きくなった。

その不穏状態を改善するために、頓服用にレボトミン一錠を使うようにと言われ飲んでいたが、凄い効き目で、何も話せなくなる(口がきけない)、動かない、要するに言動も行動も思考もすべて強制停止させられる状態だった。
だから、目覚めた時、1時間くらいは何も口がきけない、動けない、考えられなくなっていた。
それが、半錠になってからは、服薬していない人と同じようにぼーっとしていながらも、出勤の準備をするような状態になった。


ところが、このレボトミンを頓服で飲む状況が次第に増えて行った。(現在は滅多に飲まない)
それは、どうにもならない出来事や怒れて当然の問題であるのに、私が折れて我慢するしかない状況になった時、薬を飲んでわざと自分を抑え込むしかなかった。
殆どが、娘や母との言い争いで、どちらの意見にも一理ある状況で、私が拒否する事が不可能と最初から答えが出ているような状況の時ばかり。

私は何度も 「こうやって自分の言い分や解って欲しい事を聞かずに押し付けられて、自分の逃げ場がないからって、薬を飲むのよ。そんな事のために出されてる薬じゃないのに。」 と言いながら飲んだ。

どうしても納得の行かない理不尽な問題や不条理な扱いを受けた時、人は怒るのは当たり前だ。
誰にでも自己防衛の本能や自己正当化する心理は、あって当たり前なのに、私は争いを避けるために仕方なく飲んできた。


怒りのコントロールが出来ない訳ではない。
普段、私はあまり必要以外口をきかない。
何か仕事上や生活上でトラブルが起きたり、必要な関わりのあるような他人と話をする時は極めて事務的に用件のみ済ますような会話しかしない。
団欒の時に下らない冗談や、楽しい会話の共有はするが、どちらかと言えば娘や母の今日の出来事を聞いたり、愚痴の相手だったり、意見を求められれば、相手の立場になって解決の糸口を見つけるような会話の方が多い。

雑談が嫌いなのかと言えば、そう云った他愛のない会話の方が好きだ。
それは何も考えず、お気楽だから心地好いのは当たり前だ。



いま、目覚めると先日の娘のドクターショッピングの事が頭から離れず、まあいいかと収める気持ちにはどうしてもなれない。
散々、色んな事を押し殺して 『仕方ない』 と無理矢理自分に言い聞かせて、それでもどうしようもない時に薬で抑え込んできた。
本当は、こんな時だからこそ、自分を守るために薬を飲んだ方がいいと解っている。そのための薬なのだから。

でも、飲みたくない。
せっかく、飲まずに色んなことに折り合いを着けて、自分やいさかい、納得の行かない問題にも無理矢理でなく 『いた仕方のないことなのだ』 世の中にはそうやって白黒はっきりさせられない問題が山のようにあるのだから、と穏やかに静かに生活すること、生きる方法を見出したのだから、もう同じ事を繰り返したくない。

それと薬で自分の確かな感情、しかも正当な主張を誤魔化したくない思いがある。
私は、精神病患者ではないのだから、そんな手段を取るのは逆に可笑しい話だ。
どんなに納得がいかない出来事でも、どんなに耐え難い屈辱であっても、人権蹂躙に晒されている状態であっても、私は何も事を起こそうとは思わない。
何を考えているか?



それは、沈黙を守ることだ。

時期が来れば、間違いだった事を気付かせるために、何も動かない。
何より、ずっと 『これが最後の賭けだから』 とある日ふと心に浮かんだところから、一年の過ごし方をお正月に目標を立てて、それに従って生活してきた。
一年の計は元旦にあり
それを淡々と実行し、努力してきた。

・当たり前のことを当たり前にやる。
・やりたいと思ったことは、絶対に実行する。
・好きな事だけしか労力を使わず、他の事はただの仕事だと淡々とやる。

それが私自身が考えた、認知行動療法だ。
だから、何か腹が立っても忘れる努力をした、泣きたい時には泣いた。
自分の取るべき責任をしっかりとやる事と、面倒臭いと思ってやりたくない時はサボることに専念した。
自分の中だけに、喜怒哀楽をしっかり感じて、決して表面には出さないように努力した。
そして、薬を飲まなくていいように、コントロールしてきた。

今更になって、そんな本来の私の姿に、驚き、後ろめたい感情を持って罪悪感を感じている人間を見て、 「嗚呼、本当に私の事をお人好しの馬鹿だと甘くあしらっていたんだ」 と思うだけだ。



最悪な事に、もうこれしか使える最終的な薬がないと言って、頓服に出されたガバペン。
痛みが楽になるが、怖いくらいに眠気がひどく、強制的に眠らされてしまう。
そのガバペンが薬疹を起こし、服用中止になってしまった。
もう痛みや強烈なだるさ、リンパ節の腫れ、首の痛み、微熱を抑えられる薬は、すべて使えなくなり、ひたすら耐えるしかない。



私は、終わりを待っている。

2012年10月20日土曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症患者のドクターショッピングの実態

私が病院をたらい回しにされたり、義務教育時代に偏見と差別を受けて来たこと、そして現在の状況などは過去の記事に書いてきた。

しかし、今回の記事は私の長女の一件について書く。

長女は小学校5年生の時、突然全身の痛みとだるさに襲われた。
それまで元気一杯で天真爛漫、学校から帰ってくるや否やランドセルを放り投げ、 『遊んでくるー!』 と近所の公園へ行っては男の子たちと毎日野球をしたり、女の子たちと滑り台や鬼ごっこをして、夕暮れまで遊んでいた。

ある朝、目覚ましが鳴っても起きてこないので、 「おーい、起きろ~学校だぞぉ」 と起こしに行くと、 『お母さん、身体が痛くて動けない』 と言って、トイレにヨタヨタ歩いた。
私はじっと様子を母と二人で見ていて、その歩く姿に 「んん?ちょっとあの歩き方何かおかしくない?」 と驚いた。
それは、まさに私が大激痛で歩く時に 「痛い、痛い」 と言いながら爪先立ちで全身に走る電気のようなビリビリと伝わってくるのを堪えて歩く姿そのものだった。

娘はその日、欠席した。
その後も学校の体育で鉄棒をしたり、プールに入ったりして帰宅すると、 『痛いよー』 と言って寝てしまい、欠席する事が多くなった。
夕食も箸が持てなかったり、食べるのが疲れたと言って、途中でもう起き上がっていられず寝てしまう日が増えていった。


私の通院の時、その事を主治医に伝えると、 『家族内多発の疑いあり、小児線維筋痛症と小児慢性疲労症候群』 とメモを書いてくれ、ある病院の小児科の医師の名前を言い、すぐに行くようにと指示された。
主治医は、私にこう説明した。
『この病気は、女子が発症した場合、女子を出産すると80%の確立で遺伝することがアメリカリウマチ学会で言われているんだよ。だから、その可能性はあるから、もう一人の下の娘さんも注意して居て下さい。』

その後、紹介された病院へ連絡し、長女を受診させた。
診断は、症状が全部出揃っていないから、まだ(疑い)と云う事になるけど、治療して経過観察しましょう。となり、1年半通院した。
しかし、途中で私の病状が思わしくなくなり、寝込んで長女と次女の二人の面倒が見られなくなってしまったため、私は児童相談所に連絡をし、児童養護施設に入所させなければ仕方なくなった。
児童相談所に話したのは、 「食べる事と寝る事、それと学校に行かせて、必要な時に病院に行かせる。その最低限の事だけ与えてやって欲しい。それだけでいいのでお願いします。」 だった。
自分の病気によって、最低限の事が与えてやれない程の状況だったから、命の保障を懇願した。

しばらくは、長女の通院日に迎えに行って私が付き添い、医師と相談していたが、それも無理になったため、施設の職員に通院を頼む結果になった。
それから1年後、施設から娘たちは脱走し私の元へ帰って来ることになった。
脱走した理由は、長女が何を職員に訴えても無理矢理学校へ手を引っ張って連れて行かれ、施設内でも職員と入所児童が結託して娘を孤立させる、娘の行動や荷物を同室の児童に監視させチクらせる、荷物を隠すなどのいじめをされ、校舎の3階の窓から何度も飛び降りようとしたということだ。
その施設職員からの報告によって、私と娘たちは、児童相談所から 『児童との面会、通信、接触を制限する』 と半親権停止命令に近い決定所が一方的に説明もなく郵送で送られてきた。
私は断固抗議をしたが、半年間黙って受け入れる事より他なかった。
それは、協同防衛の思想や私の精神科通院歴によって到底勝ち目がないと判断したからだ。
その時、施設の職員は医師に 『この子は施設内でも何ら問題なく生活しているし、むしろお母さんとの生活の事が苦痛になっていて、どうも母親が一人で病気を苦にしているだけのように思う。』 と話した事で、私が病気の誘導(あたかも代理ミュンハウゼン症候群のような言い方)をしていることになり、診察も診断も歪められ、強度の精神病院への入院を 『娘が』 紹介された。
そこで通院をやめてしまった。

最終診断は、 『自律神経失調症、登校拒否症』


脱走後、引き取ったが、娘の精神状態は人間不信と外出や人に会うことへの恐怖感がひどく、独り言をぶつぶつ言ったり、テレビをぼーっと観ていたり、相当な放心状態だった。
小学6年生の卒業式も出たくない、卒業文集も書きたくない、卒業アルバムも要らないと拒否していた。
卒業式当日の朝、私は 「行くだけ行こう、この次は中学の入学式になるんじゃん。だから終わりのけじめを着けにお母さんのために行って。お願い。1年生の入学式の時、お母さん嬉しかったんだよ、だからお願い。」 そう言って出席した。

中学に入学しても、やはりあまり登校出来ず、私は娘に 「義務教育だから無理矢理行かなくても単位を落とすとか、留年や退学はないんだから、行ったり行かなかったりしないでゆっくり休みなさい。療養に専念した方がいい。」 と何度も説得したが、やっぱり寂しかったり、友だちと会いたかったり、人並みの中学生で居たい思いが強く聞いてはくれなかったが、やる気があるのだから、あるがままにさせておこうと様子を見ていた。
2年生の3学期頃に症状は随分と悪化していて、このままではもっと悪くなると私は思い、自分の主治医に相談すると、今度は専門が熊本大学にあるからと教えられ、自分でインターネットで調べ、連絡をし、熊本まで行った。
経過を説明し、何十枚もの問診表や色々検査を受け、診断は確定された。

『小児慢性疲労症候群および小児型線維筋痛症(重症型)、睡眠障害、顎関節症』

通院は遠方のため不可能だから、かかりつけ医にてフォローをしていくということになった。
しかし、かかりつけ医は病気を見れないと言い、私の主治医に診療申し込みをしたが 『15歳未満の患者は診察できない』 と断られ、他の受け入れ先も探してくれようと手を尽くしてくれたが何処も無理だった。
そうこうしている内、処方されたパキシルを2週間服用した頃、娘は不穏状態がひどくなり、リストカットを自分の意思とは関係なくしてしまった。
かかりつけ医に連れて行き、すぐに児童精神科の予約が入り、受診した。

3ヶ月ほど通院したが、不穏状態は消えたもののもっと精神状態は悪化し、自傷行為が続いた。
その児童精神科医の専門は、広汎性発達障害であり、私がLDの可能性はないですか?と尋ねた事で娘の問題はもしかしたら、そこにあるかあもしれないとなり検査を受けた。

結果は、 『アスペルガー症候群、行為障害』

現在まで2年近く、通院をして何度か薬の副作用が認められ、調整が繰り返された。
児童相談所の通所はその診断を受ける以前から行われてきたが、学校側も児童相談所側もその診断に非常に驚いて、そんなことはないと完全に否定した。
熊大の医師に電話し、もう一度検査して欲しい、本当に小児慢性疲労症候群なのか薬はどうしたら良いのか指示を仰ぎ、再度熊大へ行った。
そこで、娘はアスペルガーではないと断定された。

高校進学について話があったが、私は反対した。
「入学しても行ける体力もないし、行けなくなって、また挫折感を味わって結局退学になるだけだから、行かなくていい!」 と、強く言った。
しかし残念ながら、担任と娘が話し合って、進学の方向で考えると報告されたので、それなら単位制の昼間定時制が合ってると思うよと提案し受験した。
このご時勢、不登校児童が多く殆どがフリースクール出身者が多かったために、その受験倍率は5倍だったが、娘は合格してしまった。
そうして、中学校からは体裁良く追い出され、案の定、4月最初の一ヶ月だけ通学したものの、それきり履修不認定になって1年生が終わった。
2年生に上がり最初から単位を取り直すことになったが、結果は同じく4月だけで終わり、2学期に入り 『全単位履修不認定により退学処分』 という結果になった。


私の通院日に帰りに美術館に行こうと誘い、娘を付き添いがてら連れて行き、どっちが病人で受診患者なんだかというくらい娘は顔面蒼白でぐったりし、一緒に診察室に入るもだるさで朦朧としていた。
主治医に、この娘が例の子なんですけど、どうしたらいいんでしょう?と尋ねると、こう言われた。
『ああ!もう経過観察なんてしている場合じゃないよ!ダメダメ、すぐ治療に入らないと。』
そして以前と同じように、病院名と医師名をメモに書き、ここに行きなさいと指示された。
注意されたのは、必ず確定診断をした熊本大学の医師に連絡してから行くようにとの事だった。
すぐ、連絡し事情を話すと、そこの病院に行くことは大賛成だが、自分が経過観察をしていないから紹介状は今診ている精神科に頼むのが筋道だからと同意と指示を得た。



これが現在の最終章になる。
完全紹介予約制の病院だったため、通院している児童精神科医に紹介状を書いてもらうより他なく、事情を説明した。
すると、医師は 『そんなものは行っても意味がない。所詮対処療法しか出来ないんだし治らないんだから。』 と言い、私は反論した。

「そうは言っても、対処療法は苦痛の症状を和らげて、動けない問題を解消するために必要なものだし、この病気は内科には内科の役目があり、精神症状に対しては精神科の役割があるから両科で分担しながら治療する必要があるんじゃないですか」
「何も精神科の通院を否定なんか全くしていませんよ、私自身がこうやって長年薬の調整もしつつ、やっとここ2,3年で精神科の方は合う薬が続けられるようになって安定している訳ですし、対処療法も大切な治療の一環じゃないですか」

そう言うと、 『じゃあ、アスペルガーって話はどこに行っちゃったの?』 と問われたので、
「いや、それは私に聞かれても解りませんよ。でも結局は両方とも原因は不明なんだし、同じような脳の場所が誤作動をしているんでしょうから、病名とか診断名に何の意味もないし、必要な治療と処置をしなければというだけの事じゃないんですか?」
と言ったら、娘がその大人のくだらない押し問答に業を煮やして一言。

「私はアスペルガーじゃない!学校に行けないのもバイトに行けなかったのも対人関係がうまくいかなくなったからじゃなくて、身体がだるくて仕方がなかったのと、歩くと足が痛くて歩けなかったり、トレイを持っている腕が筋肉痛で痛くなって、手首に力が入らなくなったりして出来なくなったのが原因だもん。精神的に憂鬱だからダメになったんじゃないし、勉強だってやれば解るもん!」
その一言で、紹介状と予約連携を手配された。


遂に、指示された 『若年性線維筋痛症』 を診察している医師を尋ねた。
その紹介状の内容は次のように書かれてあった。(抜粋)

母親が慢性疲労症候群と線維筋痛症を長年患っており、主治医から患児を受診させるようにとの依頼があったということだが、詳細は不詳。
患児14歳:太い眉と大きな目だが、視線は節目がちで気だるそうに椅子に腰掛け、時折視線を合わせるが言葉はたどたどしく、会話の噛み合わないところが特徴的。
(苛々した様子で机の淵を爪で引っ掻く、鼻くそなどお構いなしにほじるなどあり)
母親は幼児期に発達障害の様相が見られ、近親者に特異なエピソードを持つ人が居り、結婚した夫からのDVにより、離婚。そのDVが原因と思われるが、患児に対し厳罰な体罰、殴る蹴るなどの度重なる虐待があり、児童相談所が母子分離の目的を持って、何度も児童養護施設に預けられるなど、養育困難な状況があった。虐待や母親の精神不安定などから養育不能な状況と判断できる。
母親の話はまだ断片的でつながらない、錯誤など解り難い状況。
患児もまた、母親と同じCFS,FMSと熊大などで診断されたとの事だが、広汎性発達障害と考えるに妥当な状況と判断できる。
線維筋痛症と広汎性発達障害では同じように、易刺激性、感覚過敏、対人関係の不安定性などの適応障害は重なる部分があり、否定しえない。

この内容だけに重点が置かれ、これまでの経緯の資料を全てコピーして私が持参したものにも話にも耳は傾けられず、むしろ何故年齢的な問題からして私の主治医が有名な専門医であるのに診察しないのか、そちらの方が理解できないし、私は専門じゃないから、やっぱり精神科の方で治療を受ける方が良いと思う。
私では使える薬が見つけにくいし、治せるとは言えないから、一応返事だけ書きましょうか。
と言われ、それか痛み外来なら他にもあるから、○○大学に行かれますか?
との話になったので、私が
「いや、それは行っても無駄だと思いますよ。出来れば先生に3ヶ月なり一定期間経過観察して頂いた後に紹介とかは出来ませんか?」 と頼むと、しぶしぶ3週間後に一応の予約を入れた。
触診だけで、血液検査も、処方箋も何もなしだった。
この診察に1時間も掛けた結果が、これで、そして医療費だけはきっちり請求された。




帰り道、娘に
「まさに、この状況をドクターショッピングって言うんだよ。こうやって、あっちにやられ、こっちにやられ、みんな擦り合いをして、診断名だけはきっちり着けるものの受診はそれとなくお断りして拒否するのね。で、患者は医師の言う通りに行動しているだけなのに、自分で勝手に判断して、病院巡りを繰り返しているって次々に思われて、身体表現性障害とか自律神経失調症とかうつ病とか、バンバン、レッテル貼りされて、挙句の果てに誤診されて、面倒な患者だと思われて受診拒否って結果よ。お母さんが、まだCFSもFMSも解らなかった時代にやられてきたことが、これで解った?」
と言うと、娘は
『もう、お母さんいいよ。これ以上お母さんが一生懸命先生の言う通りに動けば動くほど、どんどん、お母さんが嫌な思いをするだけだし、所詮誰も私の状態なんか聞いても、診ても、解ってもくれないってよく解ったから。もう、どこの病院にも行きたくない。20歳になれば、大人だからってことで診てくれる医者は居るんでしょ?だったら、それまで待つし、学校も仕事もダメになったから我慢するよ。もういい!!』 そう答えた。

これまでの間、娘は何度もリストカットやグラスを割ったり、ふすまにナイフやフォークなどのサーバーを刺したり、私と言い争いになって家庭内暴力を繰り返してきた。
その度に、私と次女がビジネスホテルに避難することや警察を呼ぶ事も何度となくあった。
その次女は通学は出来ているものの、やはり小学生の頃から全身の筋肉痛や倦怠感で一年に一度は寝込むことを繰り返している。


もう、私に出来る事は何もない。
親子の間で、過去の虐待といわれる問題についてはもう既に納得し、お互いに箱に閉まって 『終わった出来事』 に出来ているにも関わらず、娘の状態が悪くなる度に、その経緯を詳しく何も知らない他者、しかも有識者で権力者からまた持ち出され、そこに原因があると紹介状に書かれ、名誉毀損にも等しい扱いを私は受ける。
すべての責任が、この私一人にあるとされ、私が過去に受けた虐待や差別、そしてその影響を大きく与えた父親との離婚から11年が経とうとしても、その父親は養育費も慰謝料も何の請求もされずに責任も取っておらず、私ばかりが責めを負わされる。

虐待の連鎖については別として、私が慢性疲労症候群と線維筋痛症であることに、何の責任問題があるのか、何故それを責められなければいけないのか、そして、それが故に養育不能とまで何故誹謗中傷されなければいけないのか、わからない。




だから、あの時本気で死のうと、心臓を刺したのに。
今更、殴ったことや養育不能が原因と言われるならその時、児童相談所で事情を全部告白していたのだから、私を告訴して刑務所に入れれば良かったでしょう。
私を面倒見る病気の母にも、子どもにも私が原因で負担になる。
だから、私が死ねば、私もこの病気の苦しみと果たせない責任から自由になれる、そうすれば、母も子どもたちもみんな解放されて自由になれる。

そう思ったから心臓を刺して失血性ショックを起こしていたのに、母に気付かれて病院に運ばれて生き返らされた。

それしか、いまの私の頭には、思うことはない。
原因不明で対処療法しか出来ず、それもろくな手立ても打てないくせに、虐待が原因だって科学的根拠が証明されたような言い方をして、それでも結局、何にも出来ないって言いつつ、研究費だけは国から支給されて、最終的にはあんたが悪いって責任転嫁して、研究のお株だけは挙げて、名医って名声だけ持って行って、あんたら 『専門医』 って看板掲げてるくせに何にも患者を助けていないでしょうが。
親子共々、振り回してドクターショッピングさせてるのは、あんたら 『専門の名医様』 だろうが。

いい加減にしろ。
医者はボランティアじゃなく、きっちり診療報酬と給料と売り上げ上げてる有料だ。

2012年10月15日月曜日

孤立する自分

私はどれぐらいの年月、孤独を感じて、そして孤立した生き方をしてきたのだろう。
多分、幼児期から孤立していたのかもしれない。

原因は生活や家族など様々なところにある。
しかし、いつしか、それが私の生き方になった。

望むと望まざると、私が歩んだこの人生は寂しいものだ。
心が寂しいとか、そんなことではない。
私は人に助けを求めない。
私は人に甘えない。
私は人を当てにしない。


元々、『人間は一人で生まれ、一人で死ぬ』 この考え方がある。
決して社会との交流を自分から拒絶してなど居ないし、対人関係で悩むようなこともない。

でも、私は 『人間っていいなぁ、人ってあったかいなぁ』 と感じた事はなかった。
そう自分の心の奥底にある無意識の思いに気付いたのは、娘の悩みを聞いていた時だった。

娘も同じく、小児慢性疲労症候群、小児線維筋痛症と発症と診断をされて5年になる。
元々、元気で活発だった娘が、突然朝起きられず、トイレに行く姿が 「痛い、痛い」 とつかまって歩く姿を見て、「ん?何かおかしい」 と思ったところから、自分の主治医に話すと 『家族内多発の可能性あり』 と言われ、遺伝を指摘され、メモを渡されたのがきっかけだった。

色々なことに 『訳がわからない』 と悩んで話す娘の聞き役になっているが、とどのつまり答えてあげられない問題がある。
それが、この 『人っていいなぁ』 と思ったことが一度もない点だ。
残念ながら、そんなことを娘には言えない。
彼女が、現状の生活や病状、自分や友だちとの人間関係に悩み、思考力のない故に起きる問題だからと、手に取るように理解出来る私の意見は、あまりに残酷で夢や希望、これからの可能性をすべて壊してしまうようにしか思えない。

だから答えられない。


何となく、私を病気の大先輩だからと思い、辞書のような感覚を抱いているのが解るだけに、あまり病気の対処法など教えない。
それは、とても危ういもので、更に誘導しかねないからだ。
あるがままにさせている。
『いずれは私もお母さんと同じようになるのかなぁ』 と疑心暗鬼になって不安になっているのを見ると、 「そうとは限らない。ならない。」 そうやって否定するしかない。

知っているのに、教えてやれない。
解っているのに、止めてやれない。
とても、苦しい。

教えてやるのは、生活上の注意点だけだ。
娘が、痛いやだるい、頭が回らない、眠れない、など具体的な訴えをしてきた時だけ、「それはPCのやり過ぎの電磁波に当てられたんだね」 とか、
死にたいと言ってくれば 「そう思うだけで、本当は生きたいと思ってるから反対の事が浮かんできてるだけだよ」、
「自分の命を切り捨ててまで解決できないような問題なの?もし、そうじゃないなら、命より先に、嫌な問題の方を切り捨ててしまえ。全部切り捨てても、やっぱり命を捨てるより仕方がないと思うなら、死にたいと思うのは仕方がないかもしれない。それくらい、あんたにとって苦しくて、つらくて仕方ないんだったら、生き地獄ってことだと思うから。生きながらにして地獄を味わう事ほどつらいことはないからね。」
と、最終的にはこんな私が 『生きていてこそだから』 と教える。



結局、何もかも、その 『生きていてこそ』 味わうものばかりだ。
学生の頃、私には沢山の仲間や友人が居た。
卒業後も、いつも私を宴会や遊びに誘ってくれた。
しかし、必ず行った先で具合が悪くなったり、途中で帰ってくることも多く、約束しても当日になって体調が悪くドタキャンすることが多かった。
友だちには、予め頼んでおいた。
「私、わからないから、当日思いついたら誘ってみて。約束破るの嫌だから、ごめん」
そうやって、 『今日』 誘って貰う方が意外と付き合えた。

でも、それも次第に付き合えなくなり、友だちも誘ったら病気が悪くなると思って誘わず気を使ってくれ、結果誰とも連絡を取らなくなった。
勿論、結婚や出産などの忙しさや、友達と遊ぶ体力があるなら、子どもと遊んでやりたいと思う方が優先されたのも理由だ。

今でも、娘たちは私との時間を大事にしたい、お母さんが元気な時にあそこに一緒に行きたいと言われ、寂しい思いを強いているのが嫌だ。
生まれた時から、寝転がって遊んでやるか、保育園の送り迎えの途中、公園に寄って遊んだり、日曜日は近所の公園巡りで思いっきり遊んであげることしか出来なかった。

その遺伝したであろう娘が言ってくれた。
『お母さん、いま玄関まで歩ける?車椅子押してあげるから一緒にコンビニ行こうよ。』
車椅子に乗ってでも一緒に行ってくれるなら、それだけでメチャクチャ嬉しいから、と。
ありがとう。
本当にありがとう。


ただ、居てくれるだけでいいと言ってくれたのは貴方たちだけ。
ただ、出来る時でいいから、一緒に何かしてくれるだけでいいと言ってくれたのは貴方たちだけ。


益々、私の孤独は深まっていく。



※この記事は、2011年3月28日に書きかけていたもの。

2012年9月30日日曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症における失神状態

私は日常的に失神を起こしている。
それは前駆症状として、自覚する激しい疲労感と全身の痛みが起きた後だ。
その自覚症状も自覚出来なくなるほど、鈍く何ともいえない感覚麻痺の後、 「うう、もうダメ」 と一言言ってから、ベッドやソファに横たわってぼんやりしだす。
そのすぐ後にストンと意識がなくなっている。

周りから見れば、その姿はまるで眠っているようにしか見えない。

しかし失神してたと解るのは、何時間後かにいきなり飛び起きるからだ。
突然の意識の覚醒で目覚める。
自分がいつ、そうなったのか、その時は理解出来ない。

犬がいつも心配して、私の手や顔をガリガリ前足で触ったり、クンクン匂いを嗅いだりしても目覚めない。
時々その刺激によって、朦朧とする事もある。

今日、娘が教えてくれた。
『お母さんが寝てる時、ウロウロしてて、お腹の所でグルグル回ったり、ガリガリしてて、それでお母さんが起きたんだよ』
そう言われたが、私にはそのゴソゴソされた記憶は全くない。
それで飛び起きた意識も全然ないのだ。

起きた後、不思議な感覚がある。
すーっと、何だかとても爽やかで安らいだ感覚なのだ。
それまでの強烈なだるさや痛みがなくなって、爽快なのだ。
でも動くことも話すことも最初は出来ない。
一時間くらいして、一気に喋りだし、考え出す。

私が 『失神状態』 を理解できるのは、母が心臓病のため小さい頃からよく突然発作で倒れて救急車に乗った経験があるからだ。
ICUでずっと付き添い、モニターを見ながら、医師や看護婦が心臓マッサージなど蘇生をし、その後母の意識が戻った時、母は何も覚えていないし、自分が何故ICUに居るのかもしばらく理解出来ないでいた。
その覚醒した時の母は、飛び起きるかのような状態で目覚め、まるで不眠不休の激務の後ぐっすり熟睡して目覚めたような表情をし、とても爽快な表情をしているが、物凄く疲れきったような具合の悪い身体つきでベッドの上に横たわっている。
やはり、意識が曖昧なのか訳の解らない様子で、一時間近くはうわ言のように何か言ったり、考えたりして、しばらくはパニックにも似た感じでいるが、落ちつきだしたら私がゆっくり経緯を説明すると記憶はないが何となくそうなのかと云う感じでいたのだ。


そんな状態と本当に良く似ている。
何故、失神するのかは解らないが、慢性疲労症候群や線維筋痛症の症状に耐えられなくなって、突然脳が強制的にシャットダウンして、身体をくたばらせるのかもしれないと感じる。
それは、頓服の麻薬を飲んでも痛みが治まらず、どうしようもない 「うう、もうダメ」 と倒れこむように横になる時や、薬も飲んでいなくても同じ状態が毎日のようにある。


失神と覚醒を日常的に繰り返していると、よく解らなくなる。
その眠っていたかの時間は2時間くらいの時もあれば、5時間くらいの時もある。
睡眠薬や麻薬の副作用なら眠気が差してと自覚できる。
しかし、目覚めてから何時間も経って、特に何かをして疲れたから仮眠したいとか、そう云う心境の思い当たる節がなく突然やってくる。

頑固な不眠と過眠は確かな症状だが、それとは違う。
一旦、きちんと目覚め、家事や何らかの行動をしたり日常生活の途中で突然襲ってくるものは、失神だったと、だいぶ後になって気付いた。
何より、普通に眠いなあという、あくびをしていない。

こんなことばかり、繰り返せば倦怠感や痛みが解消されないのも当然かと思った。
ビクとも動かず固まって眠って、ビックリして起きるのだから。
それは苦しい。

2012年9月27日木曜日

慢性疲労症候群と線維筋痛症の症状の伝え方

慢性疲労症候群の特徴は、全身の激しい疲労感とリンパ節の腫れ、微熱あるいは低体温、全身の筋肉痛であり、起き上がれない程のだるさが特徴だ。
線維筋痛症の特徴は、全身の激しい筋肉痛だが、痛みが毎日全身のどこかに移動している。その痛みによってだるさがひどいことが特徴だ。

前者はだるさが主な強調的症状、後者は痛みの後からだるさに襲われる違いがある。

慢性疲労症候群の症状を伝える時、 『誰でも一回は、ひどいインフルエンザに罹るでしょ?そのインフルエンザがずーっと毎日続いている状態です。想像してみて下さい、その状態で起き上がって仕事やトイレに行けますか?』 そう伝える。

線維筋痛症の症状を伝える時、 『普段やったこともないような例えばフルマラソンや柔道とかいきなりやったら、すごい筋肉痛で動けなくなりますよね?それがずーっと毎日続いてる状態なんです。』 そう伝える。

相手に解り易く、想像させるのが一番だ。
それも日常的な、ごく簡単な問題を採り上げるのが効果的だ。
すると、誰でも 『嗚呼、なるほど』 とうなずく。


日常生活の細かな労作の問題の伝え方について、私は自分に 「嗚呼そうか!」 と感じた。
手がこわばって動きにくい状態は、健常者にとって 『トイレや汚物を掃除する時に使う分厚いゴム手袋を一日中はめて、字を書いたり、包丁を持ったり、髪の毛を洗ったりしているような状態』 だと思った。
それは、動きにくいだけでなく、水の冷たさや触っている物の触感がないことでもあり、握力の感覚もない状態だ。
全身は、ダンボールを被りロボットのように胴体も、腕も足も動かすような状態だ。
『全身コルセットさん』 になっているようなもの。
そう思った。

元々、両疾患は、慢性関節リウマチと症状が似ている。
そのリウマチの患者さんの動きは、だるさと痛み、こわばりがあり、日内変動も同じ様に起きている。
歩行困難や眩暈、吐き気なども日常的によく似ている。



私は、どんな病気かと聞かれる相手によって説明(病名)を考えている。
救急隊や警察、役所などの公的機関関係者には、実の病名を言って、前述のように説明を正直にするが、近所の人や他愛のない関係の人には、 「まあ、リウマチの中の病気です」 くらいにしか話さない。
可笑しなことに、リウマチや膠原病と言うと、誰でも 『まあ、それは大変ねえ』 とすぐに理解する。

私自身は、そのリウマチや膠原病の人の詳しい状態を殆ど知らないし、主治医が診察している患者さんはほぼ膠原病の患者さんで何十年も待合室で顔を合わせて来たが話したことはない。
シェーングレン症候群やリウマチの患者さんばかりで、診察室から先生の声と患者さんの訴えの会話を聞いてきたが、決定的に私とは違う。
指の関節が固まり変形したり、どこかに軽くぶつけて皮膚が破れるなどの症状はない。

どうして、一般の人は膠原病という病名だけで理解するのだろう?
リウマチの患者さんの症状や日常生活の困難なことを知っているのだろうか?
私には、解らない。


でも、興味本意で聞いて来る人には、それで話が済むのだからと思って、敢えて真実を語らない。
世間に認知させようと無理なことをしない。
それは、私が中学1年の時、 『怠け病だ!』 『お前は病気の振りをして登校拒否してるんだ!本当に病気なら学校でぶっ倒れてみろ、そうしたら救急車を呼んでやるから!』 そうやって担任や副担任に言われ、家にまで朝一番で押しかけて家の中にズカズカと無理矢理上がりこまれて殴られた事があったからだ。
その時の通知表には、 『怠学』 と書かれた。
結局、3年間ろくに登校できなかったが、高校進学して私は、怠け病のレッテルを貼った教師や当時の警官、教育委員会の関係者を見返してやろうと、必死で頑張った。

高校1年の時、無遅刻、無欠席、無早退の皆勤賞を獲った。
成績はオール5だ。
2年生の3学期、後一ヶ月で終わる頃、3日間、まったく起き上がれず、死んだように寝たきりになって皆勤賞は獲れなかった。
自宅に担任が電話をくれ、 『何とか学校まで来れないか?来るだけでいいから、そうしたら皆勤賞が貰えるし、精勤賞もあるから』 と言ってくれたが、会話も朦朧としていたため、 「先生ありがとうね、でも無理だわ。病気で行けないだけで、病気じゃなければ皆勤賞なんだから、そうやって解ってくれるだけで十分だよ」 と言ったら、担任は私のために泣いてくれた。

卒業して就職した時に、ひどいインフルエンザに罹ったことで、今の状態になった。
何箇所も入院したり、受診をしたが自律神経失調症と言われ、会社も遅刻、早退、欠勤が多くなり、休職を何度か繰り返した。
その時、今の主治医に出会った。
会社でも同じ様に、色々な憶測や誹謗中傷は受けたが、それは社会人として仕方がないと思っていた。
2年半勤めたが、会社に迷惑が掛かると思い、社長と話し合って、退職した。
「私ひとりを雇っていて、来るのか来ないのか、復職出来るのか見込みがつかず当てにならない状態では、他の人に迷惑が掛かるし、社長も人員の補充に困ると思う」 と言って辞めた。
私は、仕事を多く任されていたし、期待されていたのも解っていたから、尚更潔く自分の不甲斐なさを詫びる方が誠実だと思った。
仕事に病気は関係ない。
やるか、やらないか、そのどちらかしか必要ない世界なのだから。


20年経って、その会社を尋ねた。
社長や上司に会って、身障者手帳を見せて、それまでの経過を話し、「あの時の病気がいま、こういう状態なんです。でも私を雇い、仕事を教えてくださり本当に有難うございました。」 とお礼を言った。
その当時は、誰もこの病名や状態が理解できなかったが、今では少しづつ世間にも病名が公表され、耳にしたことがあるお陰で、そうだったのかと思ってもらえる。
私は、それだけでいい。

会話をする相手に、「病気は早期発見、早期治療だからね。大丈夫なんて甘く考えないで、治せるならちゃんと治した方がいいよ。そうしないと私みたいになっちゃうからね。」 と声を掛ける。

2012年9月14日金曜日

包丁が思うように使えない

握力がないから仕方がない。
アスパラガスのベーコン巻きを作ろうと思い、アスパラガスの根を切ろうとした。
「何だ!?このアスパラ、すっごい硬い!切れないぞ」 と、ビックリした。
大きな文化包丁を使うのを止めて、ぺティナイフに変えてやってみた。
結果は切れなかった。

とうもろこしを茹でようと思い、半分に切ろうとした。
「はあ!?切れないぞ? あれ?もしかして、私の握力がないから切れないのか?」 と、手伝う娘に聞いてみた。
娘が 『ん?ちょっと貸して』 と言って切ってみるとあっさり切れた。
私は 「うーん、そう云う事か。こんな力もないのか」 と言って、娘が 『ちょいと切れ目を入れて、あとボキって折れば良いんじゃない?』 と言われて、「ああ、そっか」 と作業をした。


やきそばを作った。
材料を炒めて、やきそばを炒め味付けをして、お皿に盛り付けた時には、そばは伸びてた。
炒めている時にフライパンを返そうとしても持ち上がらない、盛り付けようと鍋敷きの所に持って来る時に手首に力が入らず、握っている感覚もなかった。

カルボナーラを作った時も同じだった。
パスタはアルデンテに茹でてあり、オリーブオイルも降って伸びないようにしてあるのに、伸びてた。


結局、作業に時間が掛かるから出来上がった時には料理も自分も伸びてる。


ミョウガを刻んだ。
千切りにしようとしても、一回づつ 「よいしょ」 と刻む具合でさっさと出来ない。
きゅうりを薄切りにして和えようと思い、切るが遅い。
まるで料理初心者のような手つきだ。

その時の特徴的な姿勢は、添え手が丸まり材料を抑え切れていない、体が硬くなって丸まっている。
立って作業が出来ないから、椅子に座ってテーブルの上でやるが、それでも何回も休憩をする。

夏の定番料理のそうめんや冷麦なんて、伸びてしまうから、そんな手早い料理は難しい。
冬の定番料理の煮物なんて、焦げないよう、煮崩れないよう見張っていなければいけないから、そんな気長な料理は難しい。
煮物は煮上がる(煮汁がなくなる)寸前に照りが出るため、仕上げの最後が決め手になる。



どんな料理でも大抵の物は作れるが、一番出来ない事が 『材料を切る』 下ごしらえだ。


筋力低下と硬直は、全身の脱力感、倦怠感、筋肉痛、疲労感を起こす。
これが慢性疲労症候群と線維筋痛症の症状だ。
そして、一回夕食を(たったの一汁一菜)作っただけで一日中寝込んでしまう。
情けない限りだ。

卵かけばっかりになるのも当然。
食べるエネルギーがなくなれば、カロリーメイトゼリーになるのも当然。
その内、水しか飲めなくなって、その水を飲み込むのもつらくなって飲めなくなる。
脱水症状と栄養失調に気付かなくなって、やっと病院に行ったことも何回もあった。

一食を何回にも分けて、一日で食べる。
そのエネルギーは、基礎代謝量にも満たないのだから、痩せていくのは当然だ。
栄養失調で居れば、思考力も判断力もなくなって、体力もなくなって、あちこちおかしくなるのは当たり前だ。
でも、それが慢性疲労症候群や線維筋痛症が故に出来ないのだから、悪循環としか言いようがない。

こんな状態でも、入院の適用がされないこの病気の実態を書類だけで計ろうなんて無理だ。
一ヶ月に一度、何分間だけの受診で、何を知る事が出来て、お役所の基準を満たすデータが採れると思っているのだろう。
科学的根拠と立証がなければ、適応されないのなら、それは 『うつ病』 や 『新型(?)うつ病』 も同じだ。


昔あった田舎の診療所や療養所の制度をもう一度作ればいいのに。

2012年9月5日水曜日

この痛みを消して

2ヶ月前までは、慢性疲労症候群の全身倦怠感で 『鉛のようなだるさ』 がずっと続いていた。
そして今は、線維筋痛症の全身筋肉痛がひどくて、痛くて身動きが取れない。
何処に楽な姿勢で体を収めればいいのか、姿勢を変え動いてばかりいる。
お陰で、痛みで疲労感は追い討ちを掛ける様にひどくなる一方だ。


リリカが発売されてすぐ使った時、すごく痛みやだるさが軽くなった。
一週間も経たない内に、全身が真っ赤になって痒みが出だし、病院の婦長さんに電話をした。
折り返し、先生に確認してくれた結果、使用中止になった。

トラムセットが承認されてすぐ使った時も、今までの痛みが嘘のように消えた。
一週間後、発疹や蕁麻疹が体のあちこちに次々と現れ、大学の皮膚科に行ったら、薬疹だと言われ、また使用中止になった。
そして、このトラムセットの結果を先生に伝えると、含有薬のアセトアミノフェンが原因だから仕方がないと言われ、 『残っている分は全部破棄して下さい。どうしても辛くて我慢出来なくなると手を出してしまうからね。』 と注意された。


そうだろうな。
嘘みたいに痛くなくなって、効いたんだから、何と引き換えにしてでも使いたくなるよな。


メキシチールをもらった時、本当に嘘みたいに痛みもだるさも消えて、動けるようになって楽だった。
それがDIHSになったんだから、使えなくて当然だ。




今でも使いたいと思ってしまう。
これだけ連日、何ヶ月も同じ和らぐ事のない痛みで、居ても立っても居られないのをどう我慢すれば良いの。

この痛みを消して。
せめて、和らげるくらいして。

痛い、本当、痛い。
だるくて、だるくて、痛いからだるくて。
どうにもならない。

どうして、ある患者さんは麻酔科に行けて全身に痛み止めを打てるのか、その理由が解らない。
整形外科での治療を受けている人も居る。

私は歩くのがつらくなって、自分で 「杖があったら少しは歩ける、多分楽だろうなぁ」 と思い自費で医師の指導もなく、高齢者介護のお店で買った。
その杖も握力がなく、全身を支えるのも無理になって、杖すら重くて歩けなくなった。
それで、自分でまた車椅子を買った。
杖は、首や背筋の負担が大きいらしく、かえって具合を悪くするだけだからと整形外科で使わない方がいいと言われた。

全身の筋肉痛と脱力や力がないため、自力では動かせない。
どうしても外出しなければいけない時に、娘に押してもらうしか方法がない。
障害者支援でも、通院介助は出来ないと言われ、何度も相談しているが付き添いは出来ないと断れている。
介護の等級は決して軽いレベルの認定ではない。
身障者手帳の等級は、一度却下され再申請をしてやっと降りたが、もう8年経過しても等級の見直し申請をすれば、認定されなくなる可能性の方が高いと医師から言われ、この地方自治体では慢性疲労症候群も線維筋痛症も却下されているそうだ。

結局のところ、介助や援助を受けなければ身動きが取れない状態がどんどんひどくなっていても、財政難や引き締め政策で、何も受けられない。

現実は、どうにもならない。
少し手を貸してくれたら、少し支えてくれたら、何とか一つくらいは出来るのに。
食事の用意なんて、半日掛りでやっと。
掃除なんて、掃除機を掛けるだけで2時間。
お風呂なんて、一ヶ月に2回くらい。



娘に助けてもらうといっても、娘たちにも学校や勉強、部活、アルバイトと色々忙しい用事がある。
そんな頼ってばかり居る訳にもいかない。
夕食を作ってくれるが、自分の分だけ適当に作って食べなさい。
そう言って、私の事に構わなくていいから、自分のことを一生懸命やりなさい、余裕がある時だけで十分だからね。そして私は食べなくなった。

娘たちは、生まれた時から私が病気だったのもあるし、一緒に手伝うままごとから始まって、今では殆どの料理が出来る。
それは、私の介護を将来(現在)させるために教えてきた訳じゃない。
『自分で自分のことをきちんと出来る人になりなさい』
それが私の教えだからだ。
食事の用意は、自分たちの食べる物を作るのだから、家族全員で用意する。それが我が家の教えだ。

もし結婚して、ある日突然旦那さんが病気になったり、事故で亡くなったり、離婚したりしたとしても、自立して生きる知恵があれば戸惑う事が少なくて済む。
もし、何事もなく安定して夫婦ともに生活できるなら、互いが自立しつつ協調しあって、持ちつ持たれつやれれば、それはとても助かるからだ。
互いが自立し、それでいて共に力を合わせ、万が一どちらかに何かがあったとしても慌てず支えあえる。
そうやって、いまの自分の力や知恵で出来る事を一生懸命やればいいんだよ。と、教えてきた。


お陰で、娘たちは私を助けたり、緊急時に援助してくれたりしても、普段は甘やかさない。
身動きも出来ず、ソファに伸びきっていると私の動かない指に、楊枝を挟んだり、赤鉛筆を挟まして 『はい、煙草だよ~、いいねぇ赤いよ?この煙草』 などとおちょくって笑う。
「寄って鷹って、動けない親の体で遊びやがって!コノヤロー」 冗談で言うと、口しか利けない私をまた笑う。
それでも痛がる私に何もしてやれないと、心配しながら傍でスマホをいじっている。


『私、無敵だよ。だってお母さんの面倒見てきたから、車椅子押せるし、ご飯も食べさせてあげられるし、介護とかわかるもん。それに障害者の人の気持ちわかるもん。』
と、長女がある時言った。
「そうだねぇ、滅多に障害者と共に生きるなんて経験できることじゃないし、勉強して解るもんじゃない事も沢山あるしねぇ。実践で怒られながらやってきてるから、強いよね」

でも、寂しい思い、一緒に出掛けられない思い、不安な思いをさせている。


だから、この痛みだけでも消して。