2017年12月16日土曜日

あとちょっとしか生きられないから

ふっと頭を過る。
毎日、目覚めてから一日中ずっと考え事ばかりしている。
これと言えるような考え事ではないが、人生について考えずには居られない。

色々な事が頭の中で、ふとした瞬間にすっと言葉が過る。

あと何年経てば、自分の年が幾つになって、
あと何年経ったら、それは父や母や祖母の年までになって、
私に残された時間が、あとどれくらいなのかを考える。

ある時を境に、自分にはもうあまり時間が残されてはいないことを知った。
その時から、死について考え、今を生きることについて考え、今日をどう過ごすのかを深く考えるようになり、自分の人生の責任をきちんと果たして、取るには何をすべきかを考えながら生きて来た。

死期が近い、と感じたある日のこと、私はひどい混乱を起こした。
けれど、自分の身に起こる筈の事が、まるで身代わりのようにとても身近な者に起きた。
あの時、確かに自分は危なかった。
それを今でも忘れてはいない。
その時は命拾いをしただけのようなものであって、決して根本から問題が消え失せなくなった訳ではない。
だから、あの時救われた、この時間を今までよりもっと大切に、より考えて使うようになった。

ふと過った、『あとちょっとしかない』それは何を教えようと、何をさせようと、何を気付かせようとしているのだろう。

確かに、もう20年や30年という時間は残っていない。
良くて10年、恐らく15年は無理だろう。
あと10年だとしても、賞味8年が何かを出来る時間であって、もう今、行動に移さなければ時間はどんどんと過ぎて行ってしまう。
砂時計


自ら断つにしても、自然に訪れるにしても、すべては寿命。
私は、自分から断つようなことはしない。
与えられたもの、救われたもの、守るもの、それがある限り捨てはしない。

何もない、何も出来ない、
たとえ、そうでしかない一日だったとしても、生きていることで心を救われる者が居る。
それを誰よりも実感しているのは、私自身なのだ。

この、空しいと感じる毎日の中で、ただ生きているだけに耐えているのは、多分強いのかもしれない。
孤独も葛藤も、すべて過去のこと。
もう何とも戦っては居ない。
何もかもが過去の出来事で、いまは、どんなに空しいと感じても、生きる価値を教えられた私には、こうして無駄に思えるような一日を生きているだけで、十分なのだからと理解している。

耐える
それだけでしかなかった私の人生。
いまも変わらない。

喜びも悲しみも、楽しさも、嬉しさも、
もうない。

犬と寝る。
犬と起きる。
犬と喧嘩する。
犬と寝る。

普通、耐えたら耐えた分だけ、何かが報われるものだよねえ?
頑張ったら頑張った分だけ、何かが得られるものでしょう?
私は、ただ擦り減っていくだけ。
何もかもがボロボロに、摩耗して、何も宛がうことも出来ないまま、空しく擦り減る。


こんな想いを抱えて、まだ生きなければならない。
怒りと悲しみはセットだと言うが、その通りだ。
けれど、その思いを持った処で、どうすることも出来ない。

どうしたら、残りわずかな時間を有意義だと感じて生きられるのだろう。
最後くらい、生きてて良かった、生まれてきて良かった、そう思いたい欲がある。
だから苦しんでいる。

2017年12月13日水曜日

三年ぶりのブログ公開と投稿

事情があって、3年近く過去の記事をクローズしていた。
今日、思う所があって、もう公開して再開しても良いかな?と思い投稿しようと思い立った。

Bloggerは休止していたが、新しい投稿サイトである”note”というクリエイターが主に利用するサイトへ何気なく書き込んでいた。
まあ、病気のことや日々感じた事などの想いをつらつらと・・・。

私の症状は、この三年余りで、もう施す手立ても本当に底が尽きたような状態だ。
『万策尽きた』とまでは行っていないが。

唯一、非オピオイド系鎮痛剤を使えるようになって、その薬にも当たらず薬疹を起こさずに済んだため、とても効果的で、ここ数年の中では治療的な施しを得られているような感覚だ。
しかし、反対に、最低限の薬剤で間に合わせてしまおうと通院を減らして、医者に行かなくなった。

ずっと疑念を抱きつつも何とか出来るかもしれない、何とかして貰わないと困るから、そんな切羽詰まった気持ちや、そうしなければならない生活の実情があったから、何ともならないのに通院していたのだ。
先日、ようやく腹を括って、行っても行かなくても、飲んでも飲まなくても関係ない!と思い、通院の予約日に行くのを止めた。

案の定、薬を飲まなくなっても診察を受けなくても、私の具合は何も変わらなかった。
抗不安薬だけは、しばらくの間慣れるまで、揺り戻しから離脱するまでは少し情緒不安があっただろうが、それも散々経験して来たのもあり、私にとっては大した事ではなかった。
そう思えたのは、重症薬疹になった時に、すべての服用を断薬したことが記憶にあって、たとえ、どんなに身体症状が辛かろうと、「多臓器不全の死に直面したら、どちらを優先するのか?という選択を強いられるのだな」と理解して、「なるほどねぇ、いざ死ぬかも?となったら持病処じゃないんだ」と実感した経験があったからだ。
金銭的に逼迫し食べる物もろくに食べず、通院費を必死で工面して、薬で精を付けたり、神経症状を緩和しようとしている矛盾にけじめをつけ、「食べる物も食べなければ治療にはならん!薬なんかで病気は良くならん!食べなければ良くなるも何もない!」と踏ん切りをつけて、今回、日常生活の中で、それを実践したまでだ。

経験は財産。
良いことも悪いことも、すべてが経験に活かされている。

こうして必要最低限の通院と薬剤だけに絞って(別に今までの通院がすべて無駄とは思わないが)最低限の食事と生活をしていると、不思議な事に病気はそれほど悪い状態には感じない。
既に4か月になるが、この慢性疲労症候群と線維筋痛症を改善する方法が解かったような気がする。

良くしようとして、あれやこれや薬を使わない方がいい。
相当期間を必要とするだろうし、金銭的にも社会的にも大変になるだろうが、徹底的に生きる事自体を休むことが一番症状を軽快させる。
何よりも、よく食べて、よく寝る、よく休む、それが一番の治療になる。

私は、それを今、35年(診断から26年)経って実感している。

一生懸命、”何もしない事”が一番の治療になるとは・・・。
これは、相当な精神的忍耐力がないと実践出来ないなあ、と思った。
どうしても社会との関りは省けないし、動かずには生きられないし、金銭的な困窮は必至だし、希望を持たずには居られない訳だし、普通は自責に駆られて耐えられないだろう。
うつ状態になって当然の生活が、身体を良くする状態なんて、信じがたいだろう。
時々襲われる、自分は怠けているのだろうか?という思いや、ただ世捨て人になっただけなのではないだろうか?や、実は出来る筈なのに社会のストレスから逃げているだけなのではないだろうか?、適応出来ないだけなのではないだろうか?という症状あるあるの、いわゆる抑うつ症状と自責と自己疑心。
それを振り払って、いやいや…と自分に言い聞かせ、本来であれば自分はどんな生き方が可能だったのかを思い出す。
そうして、何もしない。
ただベッドの上で寝たり起きたり、テレビを見たり、タブレットでゲームをして気を紛らわせたり、毎日同じリズムで、同じことの繰り返しで、体内時計が狂おうが、眠れなかろうが、起きられなかろうが、どうでもいい生活をする。
ただ心掛けているのは、やれる時にやれる最低限の家事炊事掃除だけはやる、ということ。
この前、あまりに入浴が出来ずに、ましてやインフルエンザになって汗を沢山かいたのもあり、流石にお風呂に入りたいと無理をして入ったら、案の定、疲労感がハンパなく襲ってきて起き上がれず、頭痛は大激痛で起きるわ、全身の筋肉痛が大激痛だわ、と大変な思いをして懲りた。

もう本当に具合の悪い時には、何もしないのが一番。
いい加減何とかしないと…と思って、シンクに溜まった食器の洗い物をえっちらおっちら洗えば、お皿が手から滑り落ちて2枚欠けたのを見て、嗚呼やっぱりやらなきゃ良かった、と嫌気が差した。

通院をして薬を飲んでいた時には、そういう事がなかったのか?と言えば、今と何も変わらず、握力もなければ、入浴もできなければ、歩いてどこかへ行けた訳でもなく相変わらずなのだ。

以前の記事に書いたが、飼い犬が6歳になった。
その犬と遊ぶのも寝るのも何かするのも、ボーっとした感じで、抱っこをしてあげたくても握力がないから腕全体で持ち上げる。
自分の子供が赤ん坊の時に、おむつ交換をしようと床の上で持ち上げた時やお風呂に入れた時にふわ~んと手から滑り落ちて、落としてしまい、とても傷ついて、主治医に「先生、落としちゃったんですが何でですか?」と聞いたのを思い出す。
それから22年経っても相変わらずだ。
犬と夜中か朝方に星空を見ながらゴミを集積場に持って行く。それが唯一の散歩だ。


私は現在の、この生活や生き方を残念だとは思っていない。
通院を止めたのも、お金の問題だけではない。
ただ、病気である事実や歴史の現実は変わらず、空しい人生だな~とは思う。
この慢性疲労症候群および線維筋痛症でなかったら、やれていたであろう仕事や成れていたであろう社会的立場は確実にあったのだから、空しくない訳がない。
それを嘆いたとて、何が変わる訳でもない。
だから私は怠け者のように、甘んじて病気を受け入れた生活を送っているまでだ。


生きる意味など何もない。
私が生きているのは、命がまだあるからだ。

2014年9月6日土曜日

緊急手術をした

過去の記事に、「この先とんでもない病気や怪我をしたら、どうするのだろう」と書いてあった。

そして、つい先日、そのとんでもない状態が襲った。
腹痛に苦しんで7年だったが、いつものように突然七転八倒するような激痛の腹痛に襲われた。
ベッドの上でのた打ち回り、その内に嘔吐をしだし、私はトイレの前でうずくまっていた。

娘が、どうしたら良いのか呆然としながら背中をさすって、「お母さん救急車呼ぼう?」と言うものの、以前からの原因不明の腹痛で救急外来に行っては何も出来ず、分からずの状況を考えると、またどうせ、そうなんだろうと思い、3時間も我慢して様子を見ていた。


結局、痛みはひどくなり、嘔吐も激しくなり、冷や汗や朦朧として話すことも出来なくなって、娘が救急車を呼んだ。
大学の救急外来で、レントゲン、CT、腹部エコー、採血、尿検査を次々としていっても、はっきりとした問題が中々判らない。
そうこうしている間にも、体温は下がり、バイタルサインは異常になっていく。
そして最終的に再度造影CTをして、消化器科の医師が呼ばれ、検査結果を待っていた。

腸捻転だった。
既に壊死が始まっているかもしれず、癒着しているのは画像から判ったから、緊急手術をしないと腹膜炎を起こしだしていたら命に関わる、と言われた。

医師からは、痛み止めや色々な薬剤の薬疹があるから、非常に限定された状況で手術をしなくてはならない事と術後の対処も難しい事を説明された。
救急外来の看護師は準備をしながら、「こんなに大変なことになっているとは思わなかったわね」と言われ、やはり以前同様はっきりとした症状が確認できず、どこか大袈裟で演技的か、あるいは身体表現性の症状なのかと疑われていたのを、その言葉から察した。

慢性疲労症候群という病名が、いつも訳の分からない状況に惑わす。
そう思えて、腹が立つような感覚と、やっと今回は原因がはっきりして何とか対処して貰えるんだという何とも言えない気持ちだった。

そして、すぐに手術の準備が始まり、説明と同意書の手続きを進め、私は手術室へ運ばれた。


手術は無事終わり、壊死も始まっておらず、腸の癒着を取り除き、切除することなく、腹膜の嫌な状態を修復するだけで済んだ。
術後の痛み止めの対処も限定的な対処しか出来ず、我慢するしかなかったが、痛みに慣れてしまった私の感覚は、痛みなのか何なのかの認識も鈍かった。


やっと、あの何度も救急外来に来た苦痛から開放された。
それでも、こんな大変なことになってしまうとは思いも寄らず、また命に関わる待ったなしの状況に自分がなるなんて。



通院するのが嫌で、行っても埒の明かない仕方のない、解決策のない病院と思っていた、その病院に手術を受けて、命を助けられて、入院するなんて思っていなかった。
全身麻酔の影響と痛み止めの鎮静剤の影響で、ぼんやりしている中で考えていた。

この病院にまさか入院しているなんて。

何故か、心が安らいでいた。
術後の回復期の発熱や咳や寝返りの苦しさはあっても、意識がはっきりしだしてからは安らいで、規則正しい生活と外界からの遮断に静かな気持ちがあった。
とても疲れていた生活。
静養と安静のために入院を何度も薦められた意味が理解できた。

一日毎に回復していく状態だったが、一週間ほど経過した時、急に具合が悪くなった。
腹痛と全身のだるさや痛さ、ぐったりとして、表情も何も気が回らない、何とも言えない嫌な具合悪さ。
また造影CTを受けた。
腸はきれいで、他の臓器の異常もなかった。
多分、術後の持病からくる症状だったのかもしれないと言われた。



そんな状態から回復して12日間で退院した。
私は帰りたくなかった。
もう、あと一週間くらい病院で静かに寝て居たかった。

入院生活を退屈と感じず、不自由とも思わず、制限が嫌だと思わず、規則正しい何も考えなくていい生活がどれ程、安堵するのか実感した。
私は疲れているんだ。そう思った。

2014年6月26日木曜日

慢性疲労症候群と診断されてから

最近、自分が何に悩み、何に苦しんで来たのか考えていた。
私が小学生の頃には、医学界ではすべて 『子どもにはあり得ない』 とされ、ずっと何の手立ても打てずにいた。
それから、明らかに自覚して 「これは絶対に病気だ」 と思ったのは20歳の時だった。
一年半以上のドクターショッピングの後、この診断に間違いないと言われ、私は慢性疲労症候群と判明した。
しかし、結局それは未だに何の手立ても打てない状況に変わりはない。
しかも、手の施しようがないと言われ、現代医学ではどうする事も出来ない限界と言われ、対処療法も苦し紛れの索しかなくなった、いま、過去と未来を考えることが多くなった。

私が苦しんできたのは、やはり病気が人生すべての障害になっていたことだ。
仕事も症状の悪化によって、転職や退職を繰り返し、子育ても思うようにならず、親の手助けも出来ないような、そんな人生ばかりだったなあと思った。

どんなハングリー精神があろうとも、目指す未来に向かって諦めずやり抜こうとする前しか見ない心持で居ようとも、やはり動けない体調不良には勝てない。

ある仕事をしていた時、始業直後から全身に走る激痛とひどい倦怠感を自覚したことがある。
しかし生活のために退職や休職をする訳にはいかず、仕事を続けたが、少人数の職場では欠勤は支障がある。
それで仕方なく辞めるしかなく、職を失った。
失ったからといって嘆いている暇はない。
また次の仕事に就職する。同じ状態で退職する。

そして、ここまで生きて来て、今更ながらに苦しんできた理由が解った。
『治療の出来ない病気に振り回された』
これが私を苦しめる原因だ。
やろうとする事の足を引っ張るのは、いつも、いつも、この病気であるが故なのは紛れもない事実だ。

これから、どうしよう。
この先、どうやって生きていこう。
ただ、そればかり。
どうすることも出来ないことに抵抗しても無理なのが、また苦しみになる。

2014年5月17日土曜日

慢性疲労症候群と歯科治療

知っている人も多いかと思いますが、慢性疲労症候群はセロトニンとノルアドレナリンなど脳機能の一部が誤作動を起こしている問題があるようです。

抵抗力や免疫力が弱いために、口腔内や様々な感染症(いわゆるばい菌)に侵されやすい故に、虫歯や歯槽膿漏がひどくなりやすい。
昨年からあまりに虫歯で歯がボロボロになってしまったために歯科通院しています。

結局、程度がひどいので神経までボロボロになってしまう私は麻酔をして、クラウン(銀歯)を外して相当自分の歯を削らなければならない。
その麻酔で毎回、動悸とめまいのために治療後は具合が悪くなって歩けなくなってしまう。
健常者の方でもアドレナリン(エピネフィリン症候群)という症状で具合が悪くなると歯科医師会のホームページで読んだ。

私は普段から低血圧や徐脈のため、麻酔薬に含まれる定着剤(これがエピエフィリン)によって、いきなり強心剤を打たれたような状態で、アドレナリンとドーパミンが一気に上昇することで、麻酔の効果が薄れて来ると急激な降下が起きて具合が悪くなる。

今日も麻酔をして治療をしたが、終わったらチカチカ目の前がして、頭もクラクラしていたが病院で倒れはせずに済んだ。
現在、歯科医院の方から案内があったのだが、予約をせず 「具合の良い当日に連絡して、すぐ治療する」 ようになっている。

線維筋痛症では歯科治療の後、発症するケースや顎関節症によるものが指摘されている。
私の場合、どちらの疾患も患っているために両方の症状が一気に起こるため非常に治療が難しくなっているのだと解った。


全身のどこにでも現れる症状は…と言われているように身体機能のすべてが反応して更に悪化する結果を招く。
そうは言っても、食べるために口は使わなければ仕方ないし 『歯は命取り』 と誰もが言う通り治療しない訳にも行かない。

何を取って、何を捨て、何を引き換えにするか、考えざるを得ない。

神経を抜くための苦痛や抜歯の痛みは全身を襲い、痛みには耐えられないから、仕方なく痛み止めを飲むしかない。
この先、とんでもない怪我や病気をしたら、きっと傷は癒えても、もう無理だろう。
そんな危機感に未だ軽く考えて気付かない内科医たち。


「だから言ったのに」 と、そうなった時に慌てればいい。そう思っている。
患者の訴えに耳を貸さず、取り返しの付かない思いをしなければ解らないのだから仕方がない。

歯科医師がどれだけの神経を使って治療しているのか解らないでしょう。
大学付属の歯学部が怖がって断った私を真剣に治療してくれる先生に感謝する。
ただ、体調のなるべく良い時を見計らって、と言われても難しいですね。

2014年5月12日月曜日

どうにもならない身体 慢性疲労症候群であること

疲れがひどい。
気持ちは、疲れたとは思っていない。
けれど、ひどい疲労感。

痛みとだるさから、起き上がっていられない。
痛みとだるさのせいで、眠れない。

ベッドに横になると、ふうっと気持ちと身体が楽になるのに一箇所にじっとしてはいられなくなる。
何処へ身体を収めようかと動いてばかりで、結局疲れて起き上がる。

まさに寝ても覚めてもだ。


眠ると疲れるから、眠れない。
疲れるから眠りたい。
目が覚めるとひどいだるさが体中に鉛のように圧し掛かる。

本当は一日中、横になっていられたら、どれ程、楽だろう。
毎朝、そう思うのに痛みで寝ていられない。

こんなことを20年以上も自分が繰り返して来たなんて、まったく想像も着かない。
信じられない。

目覚めている間、私はソファにただ座って、時々横になって、ほとんど動けない。
それは少しでも動けば、背筋、腕、太もも、首、手首、顔面、あちこちが予告もなしに信じられないほどの激痛が起きるからだ。
サポーターで圧迫したり、苦しくなって外したり、ずっと気が休まらない。


鎮痛剤の使えない私は、ただじっと時間が過ぎるのを待っているだけ。
座っていてもめまいがする。
何をしていても、どうにもならない。
これが慢性疲労症候群なのだとは思いたくない。
この病気のせいで具合が悪いと感じられない、実感がない、納得できない。

ずっと起き上がれなかった時の事を覚えている。
スケール10のうち、今表現するなら恐らくレベル9だと思う。
あと一歩だ。

2013年11月22日金曜日

慢性疲労症候群でも楽しいことを諦めない

今日はいつも書くような症状や通院についてではない内容を書く。
タイトルの通り私が楽しいと思うことを諦めない内容を書こうと思った。

私は幼い頃から音楽を生活の中で聴いて育った。
私はピアノが好きだったが、母はギターをやりなさいと言っていた。
ギターの音色の魅力があまり解らなかった私がある日、ギターを弾きたい!と思った。
それはPRINCEのPurple Rainを聴いた瞬間だ。

それから家にあった手入れのされていない、ネックの反ったクラシックギターでコードを覚えた。
もう限界だと思って、母にギターを買って欲しいと頼んだのが最初のストラトキャスターだった。
母が楽器屋で、店員に話して中古のAria ProⅡの真っ赤のストラトキャスターとアンプとストラップやシールドなど必要な物を見繕って買ってくれた。
3年ぐらい経って、レスポールの音の魅力が解って、アルバイトのお金を足して母に買ってもらったのはヤマハの新作のギターだった。
楽器やステレオ(レコード・プレーヤー)、マイクなど機材が家にあって恵まれた環境だったため近所迷惑も関係のない家だったから存分に楽しめた。

その後、母の知人の娘さんがギターを要らないから捨ててと言ったらしく、それを貰って欲しいと言われた。
Morrisのアコースティック・ギターで、恐らく2,3回しか弾いていないような感じの綺麗なギターでハードケースに全部道具が揃えてあった。
それを捨てちゃうなんて考えられない。

暇とお金さえあれば練習スタジオで沢山弾いて、家でも、学校でも、弾いていた。

7歳の時、ヤマハがエレクトーンを発売し、現在のヤマハ音楽教室が大流行した。
その時、生活が苦しかったが母にどうしてもやりたいと頼んでエレクトーンを習ったが発表会に出させたいと先生が言って、母が大反対したことで辞めてしまった。
当時、エレクトーンなど非常に高価なもので(恐らく現在でも)誰の家にでもあるものではなく、教習の30分前に練習をさせてもらえたが、私はそれだけで弾けた。
家で教則本を見ながら、机の上と下で手と足の練習を毎日していた。
教室では家で練習した音を確認するだけで良かった。

そのお陰で、譜面が読めるようになった。
だからギターはコードが譜面に書いてあれば、すぐに弾ける。


そのギターは全部、今はもうない。
2本は実家の全焼で焼失し、他は生活の為というか置き場所がなくなってしまったことで売ってしまった。
私の作詞作曲したノートもデモテープも焼失してしまって、聴かせることも出来ない。

30代の時、左手を怪我したせいで、薬指と小指の神経を損傷してまったく感覚がない。
だからギターがなくてもいいと思っていたが、次女が中学生の時、エレキギターを弾きたいと言い出し、練習用に買ってあげたのは、Pig noseのzo-sanだ。
昔、Pig noseのアンプが欲しかったが中々買えず、エレキギターにはアンプは必要だからと思い、zo-sanが良いと思い探していたら、Pig noseが生産していたのを見つけた。
あまりの小ささに、娘たちは価値が解らないのか、間に合わせの物を買ったと思い込んでいる。
結局、あまり弾かず、新しくスタンダードなストラトキャスタータイプの安いギターを次女は自分で買った。

見向きもされない、Pig nose。
こんなに手軽で高性能なエレキギターなのに、解らないのはギターを沢山弾いて、音を楽しんでいないからだ。

今、また感覚のない左手で私は弾くようになった。
やっぱり楽しい!
ほとんど音が出ていないような状態で、しかも握力がなくなったり、右手の感覚もなくなってくるから初心者の下手な奴みたいな状況だ。
それでもいい。


22歳の時、どうしてもヴァイオリンが弾きたくて、あるヴァイオリン専門店に行った。
大体ヴァイオリンがいくらするのかも分からないし、そもそも道具も何が要るのか知らなかったから、正直に 「ただヴァイオリンの音と曲が大好きで、自分で弾いてみたいと思った」 と伝えた。
店主はそんな気軽な感覚で弾くものじゃないし、始めるには年齢が遅すぎて今から練習しても弾けるようにはならない。しかも当店はそんな人に売るような店じゃない。と、きっぱり私を拒否した。
そんな言い分に負けるような私は性格ではない。
「楽器を始めるのに年齢は関係ない。しかもプロの音楽家になろうとしている訳でなくても誰でも楽器を楽しみたいと思うのは悪いことではない。私はずっとギターを弾いてきた」
「いくらあれば売ってもらえますか?今、私は15万円持っています。それで買えるヴァイオリンを売ってもらえませんか?」
と言うと、『どこかの先生に習うとかするなら売るのも考えるけれど』 と渋々言い返してきた。
「誰かに習う気持ちはない。自分で一から覚えます。」
そう言っても結局、売ってもらえず、最後は喧嘩になった。
一人暮らしをしながら、必死で仕事をし、貯金したお金で買おうとしたのに。


それからまもなく、その店は閉店し、”初心者から始めるヴァイオリンセット”が通販で売られるようになった。
私はそれを買う気にはならなかった。
楽器を大切に思う気持ち、愛する気持ちはよく解る。
でも高貴な楽器として、高貴な人間にしか売らないというのは間違いだと思う。

私は絵を描く。
だからと言って、絵の具を買ったらだめなのか?
画壇に入っていないからと言って、絵筆を持ったらいけないのか?
違う、誰でも絵を描きたいと思ったらどんな絵でも描いて良い。
ただ、高価な絵の具や道具を一通り揃えて、落書きをするのは絵画を馬鹿にしていると思われるかもしれない。
今の世の中、お金さえ出せば何でも手に入ってしまうせいで、デジタル絵画や音楽など誰でも何でも出来てしまう。
そこに熱意や思い入れがあるなし関係なく、誰が何をしようと構わない。
それを批難しようが賞賛しようが、それも自由だ。
”現代アート” という言葉の独り歩きで、何がアートなのか境界がない。

音楽も同じだ。
本人が楽しいと思えば、それで問題はない。


先日、ライヴに行った。
あまり、そのアーティストについて情報がなかったからほとんど知らないに等しく、彼らのキャリアも活動内容も知らなかった。
けれど目当てで行ったアーティストは、毎日YouTubeで見ていたから、「本物だ!」 と感動して泣いてしまった。
公演終了後、サイン会と写真撮影などの交流があった。
私は身体障害者手帳に全員のサインをして貰った。
メインアーティストは、Tete。
カップリングアーティストは、日本初公演のTryo。
Tryoのメンバー全員が私と写真を撮ってくれ、会話をしてくれた。
Teteは、勿論のことだが、私は初めて観たライブが楽しかった。
英語は多少解るが、フランス語はまったく解らない。
それでもサウンドは伝わる。それとそのアーティストの人間性は必ず伝わる。
ギターサウンドがどちらのアーティストにもあったから、私はもっと楽しかったかもしれない。
3時間ものライヴの後の交流会だったため、帰りは歩くのもやっと。
しかも終電しか間に合わなかった。
次の日、筋肉痛なんて軽いものではなく、全身と特に両脚がつって歩けなくなっていた。
それもそのはず。
午前中に3ヶ月に一度の通院で外に出て、急いで帰宅し、着替えて公共交通機関でライヴに歩いて行ったのだから、滅多にないハードスケジュールの一日だった。
そして翌日は、夕方に歯医者の予約。


でも、まだ、その楽しくて嬉しかった思い出は冷めていない。
彼らは、私が日常、ずっと寝込んで外出もほとんど出来ないとは思ってもいないだろう。
そんなことは、知らなくてもいい。
私がどれだけの思いで、正に這いつくばって、行って帰って来た現実があること。

生きていたからこそ、彼らと会えた、彼らの歌を聴けた、こんなにも嬉しいと感じられること。
私はずっと携帯していなければいけない身体障害者手帳にだからこそサインをしてもらった。
それを毎日、眺めている。
恨めしくて、大嫌いだった手帳に勇気を持たせてくれた。



だから、諦めない。
諦めなくて良かったと思ったから。


未だにヴァイオリンを弾いてみたいと思っているが、指の感覚がないことと、小指が開かず動かないことで無理だと解っている。
それでも…。