2012年8月29日水曜日

読んで下さっている皆さんへのメッセージ

少し前から、このブログのアクセス数が急激に増えだした事は感じていた。

アクセス数が多くなりだしたのは、ちょうど5月頃に書いた記事からだった。
ブログのアクセス数を伸ばすには、ホームページでも同じ事だが、まず検索ヒットに繋がる語句を文中に沢山収める。これが基本だ。
そして、タイトルも 『検索』 のヒット条件には欠かせない。


しかし私の場合、このブログの目的にも宣言しているように、誰かの役に立つように思っては書いていない。

その5月頃、感じたのは 「ああ、きっと慢性疲労症候群の人や線維筋痛症の人たちの体調が悪いんだな」 だった。
この疾患は、何気ない刺激に対して無意識の中で過敏状態に晒される。
いわゆるストレッサーだ。
その中でも低気圧の停滞や天候によって、目まぐるしく症状に振り回され苦しむケースが多い。
それがこの時期だったこともあって、「いま低気圧が来てるしねぇ」 と思っていた。

私がその時感じたのは、恐らく自分の訳の解らない症状に困惑して、『何でこんな状態なの?』
『どうして?』 と感じ必死で調べている人が多いのだろうだった。



でも、先日公開した記事のアクセス数が一日で100件をものの何時間で超えた事に、とても戸惑った。
自分の書いた記事を読み直し、「何でだろう?」 「どうして、こんなに一気にアクセスされたんだろう」 と考えていた。

近頃、慢性疲労症候群に於いては、疲労学会や患者会の努力もあり、厚労省が再度研究班を編成し、線維筋痛症に於いても、20年以上に及んで診察や治療をされて来られた各方面の先生方によって疲労学会の設立や研究、大会などが頻繁に行われるようになった。

それが所以で私のブログのアクセス数が、急激に伸びた訳ではないと思う。



推測でしかないが、あからさまに自分の状態を書き込んでいるからではないだろうか。
それは、ノンフィクション。
もう一つは、それだけ確定診断されず、(疑い)であったり、否定されたり、いずれも病院や医師に認められない状態で困っている人が多いことを物語っているように感じた。


誰に向けた発信でもないと言っている私から、読んで下さっている皆さんに初めて書きます。

まず、長文の多い私の記事を読んで下さってありがとうございます。
私の書く文章は、一方的で、自分の情けなさや怒り、その時の感情論が殆どだと思います。
諦めたと思えば、いや負けてたまるか、次の記事になれば、もうどうでもいい
そんな記事ばかりです。
断言的な語り口調で書いてますから、コメントのしようもない文章だと思います。

でも、これだけアクセス数が世界中から寄せられると、流石に何か役に立ててるのだろうかと思います。
自分の実態を暴露することは、自分のすべてを曝け出す事になります。
私は、こんな身体になった事を、物凄く恨んでいます。
母に
「生まれてこなきゃ良かった」
「そうしたら子どもも産まずに、娘も同じ苦しみを背負わなくて済んだ」
「どうして産んだの」
そうやって泣いて、泣いて、いま自分がこの世に居ることが恨めしくてなりません。
それでも、生きていかなければ仕方がない。
生きなければいけない理由探しなんて、もう止めました。
それは、全部苦痛から逃げるための言い訳探しにしか思えなくなったからです。

生きなければいけない理由探し=死ぬための理由探し になります。
自殺しようとしたある日、ぼーっと考えていました。
『病気じゃない人は、生きるのに理由なんて考えてないよなぁ。』
『そっかぁ、生きるのは理由は要らないけど、死ぬのは理由が要るんだ。』

そこにピンと来た時から、本当は死にたいんじゃなくて、生きたい…だけど死にたいくらいつらいって事なだけだ。そうハッキリ自覚しました。


私の記事を読むと、おぞましくなったり、怖くなったり、決して前向きになれるようなものはないと思います。
仕方がないんです。
実生活や現実に、何も、ほんと、何も、前向きになれるような出来事がないんですから。
早期段階なら治る見込みあり
という記事やPS値の軽症な人の記事をたまに見かけると、私には手に入らないものだな、と諦めるしかありません。

それでも、私の記事を読んで何か役に立っていますか?
妙な言い方ですが、私は慢性疲労症候群と線維筋痛症になって、滅多に人が経験しない 『稀』 なことを沢山経験する結果になったことは、人より多くの病気や障害を知ると思っています。
突然起こる理解出来ない問題も、勉強になったと後で気付きます。
医師たちは、皆、『何が原因なんだろう』 と困惑するばかりですが、結局辿り着く答えは、いつも慢性疲労症候群だから。線維筋痛症だから。

生涯、残念ながら解明には至らず、埒が明かないまま終わってしまうかもしれません。
それは、私を核にして、私の家族らの協力を得て、生い立ちや生育歴、様々なデータを集計し、突然変異ではなく何らかの因果関係を見つけ出さなければ解明出来ないような多分野の問題があると思うからです。
でも、それはきっと人体実験にも近いものでしょう。
本音は、それでも構わないから、何とかしてくれという思いがあります。
無理なことです。



患者さんや家族の方にとって、何か参考になっているものがあれば幸いです。
でも、誰も慢性疲労症候群にも線維筋痛症にもなって欲しくないです。
できれば、こんな病気の確定診断なんて、誰もされずに済めば良いのにと思えて仕方ありません。
社会保障や経済問題、治療の問題や必要性、それらがあって、一般社会生活も送れない人には、確定診断されることは大切な問題なのはよく解っています。
でも、自分みたいな思いや苦痛を味わう人が多くなっていくのは、嫌です。
それは、自分との折り合いを付けていく戦いの始まりだからです。
人並み以下の低いレベルでの 『ささやかな幸せ探し』 だったり、『楽しみ』 だったり。

最後に、
確定診断を受ける理由に、世間に対して 『怠け病じゃない』 証明をした後、自分しか残りません。何も、残りません。
どうぞ、確定される前に、その先に待っている問題、課題を勉強して覚悟を決めて下さい。
病気によって、自分が押し潰されます。
それは世間との戦いより、もっとつらく、長い戦いなります。

こんなメッセージしか書けなくて、すみません。



2012年8月22日水曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症患者の姿と日常


今日Twitterのあるフォロワーさんの記事で、世界初のCFSが死亡診断名のソフィアさんの映像を観た。

そのフォロワーさんは、ベッドサイドに置いてあるペットボトルの姿は自分も同じだと呟かれていた。


私が感じたことは、恐らく重症化すればするほど、皆同じ様な姿で居るのではないだろうか?と云う事だ。
今から4年以上前になると思うが、埒の明かない病状と対処療法、それに加えて益々悪化する日常生活を何とか打開したいという思いが強くなり、米国のCDCに直接国際電話を掛け、CFSに詳しい専門医あるいは担当官と話がしたいと言った。
CDCから案内され、とあるニュージャージーの医師であり、CDCのCFS対策室勤務のドクターの電話番号を教えて貰った。
すると、詳しい事がしりたいので何か資料はあるかと尋ねられたので、ビデオレターを作成していると伝え、出来上がったら送ると話した事があった。

それから、子どもに具合悪く起き上がれない状態の自分の姿や、トイレに立つ姿などありふれた日常生活のありのままをホームビデオで撮影させた。
その最初に、パソコンで打ち込んだ英語のメッセージを撮影し、それから自分にカメラを向けて、片言ながらも自分の言葉でメッセージを話す姿を撮影した。


ベッドから起き上がる時は、布団や枕に一度顔を伏せ、その後上半身を起こそうとしても力が入らないため、まず足を両腕でベッド下に降ろさなければ起き上がれない。
歩くにもあっちの棚、こっちの壁と何処かをつたっていなければ身体を支えられない。

水を飲むにも握力がないために、陶器やガラスのような重い物は持てず、プラスチック製の持ち手のないコップを子どものように両手で掴まなければ持てない。
どこかのファストフード店で買ったストロー付きのコップをよく応用していた。
現在は、マイボトルブームのお陰でプラ製ボトルにストローを差してベッドサイドに置いている。
勿論、喉が異常に渇くのでペットボトルに水を入れて置いてあるし、あまりに辛い時にはポカリスウェットのボトルを置いている時もある。

眠る時はソフィアさんを観て、「同じなんだなぁ」 と思ったように、幅の広い伸びてしまったパイル地のヘアバンドをアイマスクの代わりにしている。

日常着のになっているパジャマ選びが非常に難しい。
軟らかい、体のどこも締め付けない綿素材の物を着ているが、そのパジャマの重みで身体がだるくなるので軽くて、薄地の物になる。
線維筋痛症も合併している私は、洋服の重みや素材にひどく痛みやだるさを感じてしまう。
また、同じ姿勢で寝ていると、自分の体重の重さで体中が痛みに襲われる。
だから、寝返りばかり打って、筋肉痛のひどい時は、体中サポーターで圧迫し、更に自分の腕や足を捻って絡ませなければ、どうすることもままならない。
椅子に座っている事も同じで、同じ姿勢で居ると、お尻や太ももの裏側に負担が掛かって痛む。
それを私は、 「イワシよ、私はねイワシと同じなのよ。」 と表現する。
イワシは、海から水揚げされた途端、自分の体重の重さで死んでしまう。その時体から鱗が剥がれ落ちてしまうのだ。

結局、寝ても起きても、落ち着いて居られない。

痛みやだるさから、どうしても前かがみの方が楽になって足も体操座りで丸まっているような状態で、背骨が曲がってしまう。
母に、 『あなたの歩く姿っておばあさんみたい』 と言われる。
会う度に、猫背や背骨の中心が曲がる姿が年々ひどくなってきていると言われる。

それでも、学生の時にバレーボールをやっていたお陰で、ストレッチを知っているので一日一度はなるべく行うようにしているのと、あぐらをかいて、足の裏を合わせて膝を床に着ける股関節体操をずっとして来たこともあって、相撲の四股の姿勢は出来る。
少し、身体の痛みが強くなってくると、そうしてトレーニングをして筋肉が固まってしまわないように自分で訓練をしている。

食事の時は、箸が上手く持てない時にはフォークやスプーンを使うが、結局は赤ちゃんのような持ち方でしか食べられない。
理由は指が上手く動かないからだ。

大抵、具合の悪い(この疾患のレベル上で)時は、まず末梢神経の働きが上手く行かず、その次に大きな筋肉、例えば太ももやふくらはぎ、二の腕、胴体などの筋肉の動きが鈍くなるから何もかも動きが悪い。
その時首がすごく痛い。顎の骨やえらの部分の筋肉も痛い。
医師はリンパ節が腫れているから、痛むんだと説明してくれた。


そんな姿をビデオに収めた。
しかし、いつまでそれを記録して、それをCDCに送って、その後どうしようかと考えた。
本当は、渡米して少しでも解決の道が開けたらと思ったが、医療費や滞在費の莫大な金銭が必要な事や軽快する見込みの薄さを考え、私は断念した。



そうこうしている内に、重症薬疹になりそれどころではなくなってしまい、杖をつかなければ歩けなくなり、終いには車椅子を娘に押して貰わなければ動けなくなってしまった。

それから暫くして、cfs nonというサイトが立ち上がり、 篠原さんがまだ支援者の方と少しづつ活動され始めた時期だった。
その後 『I Remember Me』 というビデオを知った。
勿論、YOUTUBEにも概要は紹介されていたので、少し観たが、まるで自分が撮影した姿そのものだった事がとても辛くなってしまった。


今でも撮影したビデオレターをどうしようかと悩んだり、見返す度に 『真実の姿』 を客観的に観ると泣けて泣けて仕方がない。


現実も真実も理解しているとはいっても、それでも受け入れがたいのかもしれない。
だから、今日Twitterで紹介されたソフィアさんの姿は、あまりに真実を暴露的に観たような気がして、やっぱり知りたくないと思ってしまったのが本音だ。

そして、冒頭にも書いたように、恐らくこの慢性疲労症候群の患者の誰もが同じ様な姿で、同じ様な動きの中、精神的にも同じ様な思いの中で日常生活を送っているのではないかと思ったのだ。



私は、その4年程前から首と背骨に痛みや鈍痛をずっと感じている。
主治医から神経内科に行って診て貰ってくれと言われ、行ったのだが首の骨(頚椎)の4番と5番が狭くなっていると言われた。しかし何も出来ないと言われた。
背骨は丁度、胃の後ろ側(身体の真ん中)が痛んで、押さえると痛む骨が曲がっているのが解るが、どうすることも出来ないのだろうと思い、整形外科にも神経内科にも行っていない。


このブログで、『慢性疲労症候群と線維筋痛症の結末』 と記事を書いておきながら、無責任かもしれないが、意図的に検索ヒット数を伸ばすためにセンセーショナルなタイトルを付けた気は更々ない。
ただ、自分の体験や経過を率直に書く事で、記録に残しておこうと思うだけだ。

読み手にとっては、哀れんでこんなにひどいと訴えているように感じるかもしれない。

それでも、私は自分を哀れんで悲しんで一日を終わりたくないと毎日、毎晩思っている。
でも、他の患者さんの自分を鏡に映したような姿を見たり、知るのはつらい。

うつになるなと言われても、無理な話だ。
この生きる現実は、生きる屍そのものなのだから。

2012年8月11日土曜日

やっと止まった

人並みの 『夏休み』 のライフイベントを過ごしてから、やっと動き回るのが止まった。
何ヶ月、こんなに動いてきたのだろう。

止まったきっかけは、全身の疲労感と関節痛、脱力感、そして原因不明の手の甲や指、腕に拡がる水泡様丘疹だ。

大抵、疲れが溜まりきった後に皮膚病が出てきて、だるさや痛みが強烈になる。
皮膚病と聞くと、痒みを想像するだろうが、実は炎症によって痛みの方が強い。
ひとつの症状が、痛みのきっかけを作り、気付かぬ内にひどく疲れ、動けなくなる。


そうして、考える事も動く事も私は、やっと止まる。

結局、すべての充電分のエネルギーを残り微量まで使い果たすまでは止まれないんだ。
そう思った。


頓服で試しに10回分貰った薬は、その時飲めば3日くらいは、健常時とあまり大差なく動ける。
でも効果が切れれば、元に戻ってしまう。
一般の人が飲むドリンク剤と同じような意味でしかない。
それは麻薬にも似て、飲めば覚醒し、毎日常在として使えばやがて効果がなくなり、量が増える。
量を増やせば、結局また過剰反応の後、効かなくなってしまう。



慢性疲労症候群なんて、動けるようになるまではただじっと時期を待つだけ。
動けるようになったら、動き過ぎないように制御しつつ、動き過ぎて失速するまでやり続けるだけ。
こんな事の繰り返しでしかない。



止まってしまうと、またベッドの上。
身体をどうやって収めれば楽になれるのか、ゆったりと横になれることはない。
棒人間みたいに、両脇を腕をまっすぐに固めて、足もクロスしてまっすぐにしているのが一番楽だ。

寝る時は、死体の様に胸の上に手を組んで真上を向いていると、眠りに入っていく。
起きた時は、布団がくしゃくしゃになっていて、枕もどこかに行ってしまい、一体寝ている間にどれだけ寝返りを打っていたのだろうと思う。
お陰で、一度眠るたびにベッドメイクをし直す。

寝汗びっしょり。
髪の毛くしゃくしゃ。
何をして一日終わったのか、時間ばかりが過ぎていく。

私は止まって、時計はずっと動いている。

2012年8月7日火曜日

成せば成る~この世は外界のストレスありき

主治医に入院が必要だと言われて、紹介状を書いてもらい病院に要約行った。
しかし、初診で問診を受けた医師は、とてもクールでスマートな人だった。
彼は、紹介状の内容は何一つ理解出来ないと言い、私が何を必要とし、与えるべきものは何か
それを会話の中から読み取ろうとしていた。

一問一答、即答をする私に、思考力も判断力も記憶力も鈍くないと、まず悟らせた。
その次、入院に関して自分が懸念している問題を説明した。
私が 「要するに言わんとしているのは外界のストレスから開放されて、入院環境に適応してしまうって事を心配されているんですね?」 と聞くと、『その通り』。
私は、「それは絶対にない。何故なら私はこの病院に長く入院するつもりで来ていない。絶対にない。」 と言い切った。

最後に医師が私を試した。
『じゃあ、個室○○円しか空いていないから、そこにまず一週間で、どうですか?』 と提案。
最初から一週間で幾ら掛かるのか計算し、それを払ってでも入院するメリットとデメリットを即座に考える事を医師は知っていた。
勿論、私は医師が何を狙っているのか見抜いていた。
自分の正直な気持ちに向き合い、「ならば、入院しません。」 少し考えてから答えた。

その時、ピンと気付いたのが
『この世は、外界のストレスと共に在って当たり前』 その一言だった。


とっくに、解っていた事だった。
どんなに環境を変えた所で、またその変わった環境によってストレスが増え、適応せざるを得ない。
この世の中に、自分にとって何もかも居心地の良い、ストレスのない世界など何処にも在る訳がない。
みんな勘違いをしている。

別に慢性疲労症候群や線維筋痛症に限らず、病人、障害者、健常者、すべて人間は何かしらのストレスに晒されている。
そのストレスに対する感受性の強弱や適応の仕方が、人と少し違い、日常生活を送れない程の病的な心身ともに疲労や痛みを引き起こしているに過ぎない。
避けられる嫌な問題(ストレッサー)があるなら、上手く避けていけばいい。

私の場合、自分では感じない無意識のストレッサーは、光、温度、音、動き、目に見えない電磁波に対して特に過敏だ。
外出する時は、10代の頃からサングラスをしていたし、何時寒気に襲われるか解らないから上着(カーディガンやパーカー)を持っていた。
カバンには、チョコレートと目薬、リップクリーム、頭痛薬が常備されていた。
記憶が悪くなりだした20代の時、母が小さなリングメモとボールペンを持っていると良いよと教えてくれ、カレンダー式の手帳をプレゼントしてくれた。
鬱が強くなった時に、『日記を書くといいよ、後で自分がどんな事を感じていたのか読み返して思い出せるからね。そこに自分の思いを全部吐き出しなさい。』 と教えてくれ、高校生の時から何十冊も日記を書いてきた。

そして、ある日、母が日記を書くのを止めなさいと言ってきた。
思いを今度は口で吐き出せと言うのだった。


今から思えば、母が指導してきた行動療法や心理療法、認知行動療法は本当に正しかった。
負けず嫌いの私の性格を利用して、『あなたはチキショーって思った時が伸びる時だから』 とわざと皮肉を言ったり、動けないと情けなくなっている私に無理矢理、畑仕事をさせてみたり、ガーデニングを教えたりと恨まれる事も嫌われる事も何ともいとわず、私を動かした。

事の発端は、自殺未遂で左腕(上腕下部)を剃刀で切り落としたことだった。
6時間の手術の後、一ヶ月入院していたが、退院しても指は動かないかもしれないと言われた。
そこで、母がリハビリのためにガーデニングをやらせたのだ。
初めて触る土の感触、草花の香り、流す汗に無我夢中で黙々と仕事のように従う私を覚えている。
動き出した、私の心と体。とても楽しくて、夢中になって世話をし、朝5:30に起きて、花と畑の世話をし、朝食を作り、子どもたちを保育園に送り、帰ってきてまた庭仕事の続きを半年続けた。
私の腕は、切り落とした部分の神経感覚はないが、普通に動くようになった。
しかし、後に掌を切り裂いた事で、今では左の薬指と小指は縫合のために引き攣れ、神経感覚は全くない。

どれほどの体中に切り傷が残っているかと言えば、『首』と名が付く箇所にためらいでない裂傷がある。
切れていないのは、左の足首だけだ。
胴体も、まるで刀で切られたのか、切腹でもしたのかといった大きな傷がある。心臓を刺して、理由は知らないが、手術で必要性があったからなのか、そんな自分ではやっていない傷もある。



それほどまでに、死にたいくらい耐え切れなかった。
死にたかった。


でも、命や人生を見つめて、CFSとFMSにどれほど追い詰められても、私は死なないと思った。
命は、人が考えて解るものではない。

入院を断って帰り道に考えた事は、病死であれ自殺であれ 『死』 に変わりはない。
それが寿命というものだ。
死因を問題視するのは、生きている人間だけなのだ。
病死は、病気によって臓器が蝕まれ死に至る。
自殺は、精神が蝕まれ死に至る。
病死と自殺は、どちらも肉体と精神が蝕まれた結果、もはやこれまでと生命力を失って死に至るものだ。


私にとって、もはや何が理由で死に至るのかなど、どうでも良い。
生きる屍で生きてゆく事も、温存療法をしながら怯えて生きる事もうんざりした。
やりたい事ができないと嘆いて一生を過ごし、訳の解らない内に死ぬのもうんざりだ。

だから、3泊4日の家族旅行に行く事にした。
子どもたちは、私の面倒を見切れないかもしれないと不安がったが、そんな心配は要らない。
自分が楽しむ、みんなで楽しむために行きたいか、行きたくないかだけ考えればいいよ。
そう言って、片道100kmの海へ行き、犬も連れて、何倍も時間が掛かったが帰ってきた。


コテージで20年ぶりに使ったパーコレーターで煎れた珈琲は、すっごく美味しかった。
月を眺めながら、ビールを飲んで娘の青春談話を語り合ったひと時がゆったりしていた。
海水浴場で犬を 『初めての体験』 をさせたのも楽しかった。
コインシャワーの使い方を教え、犬も洗ってさっぱり、自分の犬が何処の場所でもお風呂が平気な事が解り、これは助かると経験したのも私にとって良かった。
逆に、人間の方が適応力がないことに呆れた。
たかが、食事や、風呂や、施設の設備、シャワーの使い方くらいのことで、アタフタして 頭の中で 『大変だー!』 と慌てふためいている姿を見て、こりゃ、天災が起きて漏れなくPTSDに陥るのがオチだわと感じた。
気持ちがバタバタして、それに疲れて苛々して、楽しめなくなる。


知らない世界、知らない出来事を楽しむより、計算しようとする辺りがいかにも現代病の様に、私の目には映った。

それでも、私は人並みのライフイベントを送ったのだ。
『夏休み』


帰宅してから、私の両手足は激痛に襲われ、感覚もなくサポーターだらけで締め付け、身体を丸めて、ソファーに横たわって居るしかなかった。
トイレに目を覚まし、ヨタヨタ歩き、床に置いてある物に足を引っ掛け派手に転んだ。
行きも帰りも。
私は、「手首折れたかしら?」 と思いながらもイテテと這い蹲りながら、自分の姿に笑えて仕方がなかった。
まるで、90過ぎのおばあさんになったみたい。
笑えて、笑えて。

2012年7月20日金曜日

何も解らない

疲れや痛みがひどくなってから、記憶力も思考力も判断力もすごく悪くなっている。

自分がどうしたいのか、どう答えれば良いのか、何を選べば良いのか
何も解らない。
支離滅裂。

それなのに、片付けや掃除、模様替えばかりしている。
最初は理由が理解出来ず、動くのが辛く、起き上がれないと思いながらも 『起きなきゃ』 とやっとの思いでベッドに腰掛ける状態なのに、どうして私は一日中動き回ってるんだろうと考えてた。


やっと気付いた。
自分の頭の中が整理できないから、身の回りだけでもきちんと整理整頓したい
そんな強い思いが私を動かしているんだ。

それでも、やっても、やっても、止まらない。終わらない。

具合の悪さで寝込むのが、大嫌い。
何も出来ないで一日が終わってしまうのが、大嫌い。
だから、何か一つでも人並みに仕事をしたと思って、寝たい。
それが今までと、現在の私そのものだ。



でも、躁転なんかじゃない。
脳の思考が支離滅裂でまとまらないから、行動も支離滅裂になっている。
確かに、家の中を片付けるのは、やりっぱなしで片付いていないからやるだけ。
模様替えをしたのは、ゆっくり休める場所を作りたかったから、やっただけ。
それなりに理由があるからやっただけなのだが、限度を超えていると思う。


明日は寝てよう。
そう思っても目が覚めてしまう、起きても、また寝ていたいくらい具合が悪い。
でも3時間ぐらい経って、朝の薬を飲むための水を注ぎにやっと行って戻ってきたら、動き出してしまう。
お陰で全身筋肉痛や関節痛が起きているのに、その痛みすら、もう今では感じなくなってしまった。


何も感じない。
つらい
痛い
だるい
暑い、寒いの温度
お腹が空く
何も感じない。


自分で自分が解らなくなった。
何をどうしたいのか?
何をどう感じているのか?
何も解らない。


いつ、誰と、何を話したのか?や、自分が何をしようと思ったのか覚えていられない。
過ぎていく時間の感覚も解らない。
母と電話で話していて、『もう○○時間も話してるから切ろうか』 と言われて、「ああ、そうなのか」 と思うだけで、実感がない。

まるで、DIHSの時、プレドニンのパルス療法を受けた時の様な感覚だ。
動ける筈がないのに、一日中動き回って、歩けなくなるまで自覚できなかった、あの時と同じだ。
そして、憂鬱感がすごく強くある。
ただ唯一解るのが、疲れたって事だけ。
何もかもに疲れて、身体も疲れている事しか理解出来ない。
あの時と同じだ。
苛々して、疲れていて、一日中本当は横になって居たくて仕方がないのに、何もコントロール出来ない。




食べなきゃいけないのに、食べようと思わない。
子どもに食べさせなきゃと思うから、自分も食べる。
でも体重は大して増えない。
何かが壊れている。

病気が治ったからなら、それでいい。
治ったのなら、真っ先に仕事をする。
現に毎日、仕事をしようとしている。
今から半年、このまま動いていて何の支障も出なければ、治ったと云う事で、本腰を入れて仕事を健常者と同じ様にしようと思う。
本心は、今からすぐにでも、そうしようと、そうしたいと思っている。
でも、こんな事は一時的な状態に過ぎない事を私は覚えている。

たったの一ヶ月や二ヶ月、動けてもその後また寝込んで、子どもに面倒を診て貰って何ヶ月間も負担を強いての繰り返しだったのだから、確信が持てるまでは様子を見るしかない。



何日か前、娘に 「もう、つらいのも誤魔化して時間稼ぎしているのも嫌だ。好きな事だけしていたい」 と泣いた。
でも、その好きな事が何なのかも解らなければ、やりたい事も解らない。
ただ、やりたいのは当たり前の事ばかりだが、本腰を入れてやりたい事だけは解っている。
きっと、そんなことは到底出来ず、到達する事すら出来ない。
それが証拠に毎日通う事自体が不可能だ。


慢性疲労症候群と線維筋痛症を発症し、確定診断された時の日記を見つけ、読み返した。
私が現在、思っていること、やっていること、悩んでいること、すべて同じ文章だった。
こんなに悪くなるとは知らなかった時の自分。
そして知った自分。
目指す事に到達出来ないと解っているのも当然だ。
『赤ちゃんが生まれたら』 や 『今はまだ赤ちゃんを作るのは無理』
そんな文章に驚いた。

そんなに長い月日が経っていたんだ。
ずっと慢性疲労症候群で線維筋痛症で、訳も解らず、ただひたすら生きてきただけで、あれから何年経過していたのかも実感がなかったから。



失認、失行。そのもの。
子どもたちが、すごく不安がって、戸惑っているのが分かる。
言葉にも態度にも出さないように、私を不安がらせないようにしているのがよく分かる。

平静を装い、今まで見た事もないような元気そうな私の動きと、明らかに具合が悪そうな私の姿に怯えているのが手に取るように解る。
それでも、止まらない私。
だから、子どもを近づけないようにして、自分の好きなようにして良いよと言っている。


もうダメかな。

2012年7月10日火曜日

通院しようと思えない、思わない心境の変化

慢性疲労症候群、線維筋痛症になって、この30年間で初めて通院しようと思わなくなった。
どうしても体調が悪く、起き上がれず受診予約日に行けないことはよくある。
そんな時は、電話して予約を取り直し改めて通院する様にして来た。

大学病院では、2~3ヶ月に一度か状態に応じて1ヶ月に一度のペース。
専門主治医と精神科は、1ヶ月に一度が定例だ。
ましてや精神科は30日分の処方が限界のため、必然的にそのようになるし、途中で状態が悪くなっても予約日までは受診出来ない体制を採っている。


内科で処方される薬は、行けなかった時のために余裕を持って出されるが、精神科は大型連休や年末年始のみ5週間分まで出して貰えるが、それ以上は大量服用の危険性や依存性を加味し処方されない。
だから、どんなに体調が悪くても予約日には何としても行かなければ、薬が足りなくなってしまうため、這ってでも行かなければならない。
頼める家族が居る場合には、代理受診として薬を貰ってきて貰えるが、居なければ諦めるしかない。


いま私は、増悪状態で動けない。
先日、精神科の予約日で何とか時間に多少遅れても良いから行かねばと、這い上がり途中まで行ったが、貧血と脱水症を起こし、気力がなくなってしまった。
すぐ病院に電話して、「今向かっている途中なんですが倒れてしまって行けそうにないんで」 と、とりあえず連絡だけは入れなければと思い話をした。
受付の方が 『では、予約を取り直しましょうね』 と言って下さったので、「薬が明日までしかもうないんですが、明日すぐの状態で予約取れますか?無理ですよね?」 と聞くと、『大丈夫です、取れますよ。では○○時でお取りしておきます。』 と初めて一週間後ならとかではない、敏速な対応をして貰った。
この初診から何年間で、初めての出来事に驚いた。

しかし、翌日起き上がることも電話することも出来なかった。

昔の私なら、翌日にでも事情を説明してお詫びし、再予約をお願いしていた。


しかし、連絡もしない。行かねばとも思わない。
薬がなくなっても、何とも思わない。


随分前から行きたくないと前日に愚痴をこぼしていた。
その本意は 『疲れるから』 と 『説明するのが面倒くさい』 だった。
相変わらずが続く中で、マイナス方向のグラフの大差ない上がり下がりを説明しても、何も埒が明かず、対処も出来ない事に嫌気と無駄を感じていたからだ。
それは、通院している病院全部に対してだ。

ところが、今回は内科は勿論だが特に精神科に行く気が起きない。

どんなにつらいと説明しても、『あなたは自分で対処できるから大丈夫』 と言われてばかりで、処方も変えようとして貰えない、しかも専門主治医が入院の必要ありと紹介状を書いても、対応しようとしない。
この5ヶ月間で食事をまったくしなくなり、10kg減った。
今までで初めて、一番体重が落ちた時の数字を遥かに超えて減った。
生まれて初めて、成人してから見る数字だ。
それを食べなくなりだしてから1年以上、説明してきて、この5ヶ月間訴え続け、その上内科から早急に対処の紹介状が出されても、『大丈夫』 とされた。
結果、寝込んでいる。


だから、もう行きたくない。
どんなに訴えても対処してもらえず、私を過信しているのか間接的に受診拒否しているのかは知らないが、過信しているとずっと思っていた。
何を話しても無駄。
行っても無駄。
それなら、もう薬も要らない。



自然に死ぬのを待っていれば良いと、思う。

誤魔化し、まやかしの治療。
時間稼ぎの人生。

最期の時間、私の望む 『当たり前のことを当たり前にやる』 生活をして、やり残している好きな事をやりたい。
本当に心から、そう思う。

だから、もう病院には行かない。

何も未練はない。

2012年5月31日木曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症の結末その2 心不全の兆候



今年の2月に救急車で運ばれた。
その症状は、慢性疲労症候群、線維筋痛症とは別だ。
昨年2011年11月頃より続く、腹痛のために年が明けてから症状が悪くなり、消化器科に受診した。

何の前触れもなく、突然みぞおちから左背部へ、まるで刀で突き刺されたような激痛が2,3日おきに起きた。
兎に角、口も利けず、左側を下にしてうずくまって、その激痛に耐えること一時間あまり。
その後は、何事もなかったかのように痛みは消えてしまうが、意識が朦朧としてそのまま眠ってしまっていた。
そんな時、声も出せず誰かを呼ぶ事も出来ず、ある日は家人が誰も居ない時だったりして、ただ耐えるだけで誤魔化していた。

そんな時、娘と談笑していた所に、その症状が襲った。
娘は、『お母さん、病院に行って診てもらったほうがいいって。絶対何かおかしいよ。』と言っていた矢先の事だった。
すぐさま、娘が救急車を呼んでくれ、かかりつけの大学病院に運ばれた。

その一週間前に消化器科に受診し、胃カメラの予約の入っていた私の電子カルテを見て、
医師は 『んー、ちょっと様子見ましょうか』 と言って、声も出せずのた打ち回る私に、現状を問診してきた。
答えられるだけ答えたが、採血をしようにも血管が細くて針が通らない。
動脈血だけ採取し、血中酸素濃度だけ検査した。
その時の私の血圧や脈拍は、自動測定器が警告音を鳴らしてばかりいた。
最高血圧76、最低血圧45、脈拍48~50、SpO2ー99、体温36.8℃だったのを覚えている。

看護師が様子を診に来るが、娘に 『お母さんって、いつも血圧低め?』 と聞いて、娘は 「そうですね」と答えていた。
しかし結局6時間もの間、救急外来のベッドに横たわっていたにも関わらず、腹部CT、腹部・胸部レントゲンを撮影しても何の手立てもされずにいた。
その後、『どうする事も今は出来ない。主治医の直接診察がないと私たちでは何も出来ない』と言われ、帰宅する事になった。


どんなにバイタルサインが異常を示しても、ブドウ糖の点滴一つ打てなかった。
私はその日も、前の日も何も食べていなかった。


それから、自宅で度々起き上がれなかったり、腹痛が起きた時、血圧と体温を測って、写真に残すようにした。
それを公開しようと思った。













写真に写っている日付を見ても、わかるように低体温と低血圧を起こしている。
こんな時は何も出来ない。
そして上半身を枕やクッションなどで支え、起こしていると楽だが、しばらくすると頭を低くしたくなる。

みぞおちの辺りに何かしこりが触れるのだが、医師はこれといった説明はしてくれない。


私が、心不全の予兆を感じたのは、最後の写真2012年5月30日だ。
この一週間くらい前から非常な倦怠感と筋肉痛があり、激しい頭痛で喘息を起こす事が解っていながらアスピリンを飲まずには耐えられなくなっていた。
アイスノンや氷嚢を至る所にやって痛みを抑えようとしても増幅するばかり、その痛みで涙が勝手に出てきて、そのまま朦朧として眠りかかっては、ハッとするが目が閉じて行った。


この血圧計には、脈拍の鼓動が表示されるようになっている。
そのサインが何度も消え、不整脈が起きているのが解る。
元気なときには、計る時に腕を空気で圧迫するのもそんなに強くはないが、こういう数字や体調の時はいつも痛いくらい圧迫し続け、測定不能のエラーサインが何度も出る。
繰り返し自動で圧迫し測定しようとする。
それでやっと計れた数値がこのように現れる。


多分、こうやって心不全が寝ている時にも起きているのだろう。
人の臓器は筋肉で出来ているのだから、自覚症状もなく、ただ病的な 『痛み』 と 『だるさ』 の果てに何故心不全が起きたのかも解明出来ず、急性心不全で死ぬのだと思った。




私は最近になって、やっと気付いた。
医師たちが手の施しようがないと言ったのは、見殺しにされているのと同じ状態なのだと。
原因も対応も何も出来ず、わからないと言われた、あの2月の救急外来の対応が物語っていたのだと、思い出し、ようやく 『正当なる見殺し』 をされた事に気が付いた。

そして、私は今毎日を精一杯生きている。
明日死んだとしても何も後悔はない。
ただ、当たり前に、ありのままの今日の自分と生き、言い残す事がないよう、やり残す事がないよう、伝えられるうちに伝え、やれるうちにやれる事をやり、当たり前の日常生活を過ごしている。
すべて、ありのままの私なりに。
不安も何も消え、「これが最後の賭けだから」と思った日から怖いものがなくなった。

何だろう、この晴々とした感覚は。
自分なりに自分らしく思いっきり、毎日を生きているような気がする。
そして今まで自分の病状をネット上で公開しようとは絶対に思わなかった私が、こうして書き残そうと考え出した。