2013年4月24日水曜日

思い出せない ”慢性疲労症候群による失認症状”

あまりに長過ぎる病歴は、私の認知機能を破壊して行く。

この頃ひどくなったのは、漢字や言葉が思い出せなくなったことだ。
出来事や考えたこと、言おうと思ったこと、日付や時間など認知症と同じように覚えていない問題は確かにある。
しかし、それは誰かに教えて貰ったり、言われれば 「ああ、そうか」 と思い出せる点で認知症とは違うと判断できる。

それでも同じように何もかも、頭の中で記憶が曖昧で混濁しているのは間違いない。


私がいま、思い出せないのは病気に罹り始めた頃の状態だ。
悪化しすぎて、 『寝込んで起き上がれなかった』 その時の状態が思い出せない。
ずっと寝たきりで、食事もできず、子どもの世話も何も出来なかった。
その風景は鮮明に覚えているのに、自分の具合の悪さがどれほどのものだったのか想像が着かない。
それは現在、軽快したり回復したり治ったからではない。

病気とうまく付き合う方法を身につけた私は、日常生活に対する見方を変えただけであって、決して体調が良くなったのではなく、むしろ年を追う毎に衰えて悪化する一方でしかない。

どのように日々を送っているのか?
これはずっと訓練してきたことだ。

  • 何時に寝ようとも毎日同じ時間に起床する。(一旦目を覚ます)
  • 今日やろうと計画したことは今日中に始末する。
  • 前日から翌日の予定を確認し、体調の様子によっては変更可能なように予定を組む。
  • 体調が悪いと感じたら、無理に実行せずキャンセルできる用事なら後日に予定を振り返る。
  • 3日以上予定を先延ばしにしない。
  • 世の中の動きと同じように、自分の生活も送る。(例え睡眠障害があっても考慮しない)
  • 他人に頼らず、当てにせず、すべて自分のやるべきことだと思う。
  • 自分の欠落した機能を理解し、どうすれば可能なのか作戦を立てる。
    (例えば、記憶できないものは手帳にすべてをメモしておく。カレンダーに書き込む。壁や目に付く場所にメモを貼っておく。誰かに話しておく。など)
  • 喜怒哀楽を忘れず、自分の思いに向き合い、自分に正直になる。
  • 他人から奇妙だと誤解されるかもしれないと思っても、自分が奇妙ではないと信じる。
  • 毎日欠かさずやる事を決める。
  • 体調がどんなに悪くても、一日ひとつだけは必ず仕事をする。
    (自分の薬を飲むグラスを洗うことだけでも、仕事のひとつとして実行する。)
  • 楽しいことをする。
  • 行きたいと思った所へ行き、やりたいと思ったことはやる。
要するに誰もが行っている当たり前の日常生活を送るだけのことだ。
毎日、食事は作るし、トイレにも行くし、ゴミを片付けるし、掃除もするし、洗濯もするし、食器の後片付けもする。
それは健常者であれ、病人であれ、障害者であれ、すべてやって当たり前のことだ。

でも、病人や障害者にとってそれらはとてもつらく、困難なことでもある。
だからといって嘆いて 『出来ない』 『無理だ』 と言い、どうにかなるものでもない。
大袈裟に物事を捉えて、自己暗示に掛けてしまえば精神的に楽になれる。
誰に対しても言い訳が成立出来る。
しかし、その真実は自分自身に対しての大義名分と言い訳で納得させる材料を揃えられたものであって、何の役にも立たない。

後味悪く残るものは、自己嫌悪だけしかない。


私はこうして訓練した結果、決して満足のいくような日常生活が送れている訳ではないが更に身体的、精神的双方にかなりの負担を強いながら生きている。
それは解っている。
どんどん薄れていく自己感覚や自己認識が私を破壊しているのも解っている。

両腕、両脚にゲートルを巻き、退化した筋肉を補いながら自分の足で歩き、自分の手で物を動かす。
ベッドの上で座る生活ばかりしているしかない程の動けない身体は、胴体(体幹)の筋肉を衰えさせ、全身を支えるのが難しくなった。
だから歩くと背中が痛む。


自分が具合悪いことさえ鈍感になって、何でも出来るかのように錯覚し、何の防御もしない。
ただ不自由や苦痛に対して対処しているだけだ。

言いたいことはたった一つ。
それは自分がどれくらい具合が悪くて、病人だという自覚が殆ど理解出来なくなった。
もう、身体や精神的なものが悲鳴を挙げているその感覚すらも解らなくなった。
それだけだ。


だから私は泣かない。嘆かない。頼らない。助けを求めない。甘えない。
だって、その理由が解らないから。
だって、今まで 『つらい』、『出来ない』 そう思って助けて欲しいと願った時に誰も居なかったから。
すべて、誰にも教えて貰えず、自分で考えて乗り越えてやるしかなかったから。

悲劇のヒロインに堕ちるのが嫌だから、私は戦う。
誰かに同情されて、自分から媚びて、助けて貰わなければ生きていけない様な人生は、いつか捨てられて一瞬にしてすべてを失い、世の中の一員として生きていけなくなることを知っていた。




この揺るがない強さを手に入れた代わりに、払った代償はすべての機能を失っていく矛盾だった。
失認、失行、失語。
錯誤と錯覚だらけの中で、私は意識を失わないようにまだ努力し続ける。

2013年4月4日木曜日

慢性疲労症候群における精神症状

慢性疲労症候群の症状の中で、あらゆる精神症状が文献に書かれてある。
次の症状

2013年1月18日金曜日

海外の慢性疲労症候群患者からのチャット

私はグーグル+でコミュニティを作っている。
そのグループメンバーから突然チャットが来て、非常に驚いた。

意外と外国では予め何度か交流を経て、チャットやメールに移行するというスタイルではなく、突然アクセスされるものだ。
しかも会話の最初から単刀直入。
相手の様子を伺ったり、ご機嫌を伺うなんてものは日本固有のスタイル。

今回も、
『私は○○からCFSと診断され、今も非常に痛みに苦しんでいる。あなたは、どの様にして痛みを取り除いているの?』
と云った具合だ。

私はちょっとした会話ならそのまま英語を打ち込むが、大体翻訳機を使いながら会話をするので時間が掛かる。

それでも今回の結果は実に画期的だったのかもしれない。

私が説明したのは、
自分は痛み止めのすべてにアレルギーがあるため氷枕で冷やすしか方法がない。
日本では薬の認証に非常に時間が掛かる為、使用することは難しく、唯一服用できるのがノイロトロピンだけです。

ここからの説明に相手は非常に驚いていた。
私は痛みに耐えるためと殺すために体中にゲートルを巻いています。
その姿はミイラかフランケンシュタインのように非常に痛々しいものです。
と、書いたら相手が 『ゲートル?ゲートルって何か?意味は知ってるの?』 とビックリし、ウィキペディアのURLを貼ってきた。

その通り。(Yes,Yes)
CFSは筋肉低下と筋肉痛を伴うため圧迫して痛みを止める。そして全身の筋肉を衰えさせるために布製のゲートルを巻いて固定し、筋肉の代わりに使用する。
医療用の包帯では伸縮性があり血流の悪化を招くため、使用できない。

あらゆるサポーターやゲートルを使用する方法を私は自分自身で発見した。
驚きましたか?

と返信すると、相手は
『私は知らなかった。そして、その方法を試すことになると思う。患者会のみんなに伝えなければいけないと強く感じた。情報をありがとう。』
と返信された。



そして改めて送ってくれたゲートルのウィキペディアを読み返した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%9A%E7%B5%86

最初に書いてある文章を紹介しよう。


脚絆(きゃはん)とは、脛の部分に巻く布や革でできた被服。ゲートルともいう。
活動時や長期歩行時に、ズボンの裾が障害物にからまったりしないよう裾を押さえ、脛を保護し、足首を圧迫しうっ血を防いで血流を良くする等の目的がある。日本では江戸時代からひろく使用され、終戦までは西洋型脚絆が軍装の一部を構成した。現在でも裾を引っ掛けることに起因する事故を防いだり、足首や足の甲への受傷を防ぐ目的で着用を義務付けている職場があり、作業服などを扱う店で販売されている。

このマーカーをした文章の通り、実にこの病気の理に叶っている物だった、そう思った。
市販されているサポーターも沢山試してきた。
でも、どれも一定の圧迫や固定で、微妙な調整が中々出来ない。
私は、洋服などの圧迫感によって全身の大激痛がものの1~2時間で起きたり、呼吸困難になった経験が何回もある。
今、流行のヒートテック素材のものは使えない。
同じく、部分的なサポーター類も中々合わなくなってしまい、サイズも骸骨のように痩せたせいか緩くて合わない。

そこで、まず左足の付け根からの痛みが随分前からあり、膝から下をもういっそのこと切り落としてくれと云うほど痛みがひどかったのでDITHで入院した時に巻かれたゲートルを巻いたのだ。

これなら強く締めたい部分と弱く覆うだけで良い部分と自分で調節が出来る。
特に膝関節と足首の痛みがひどく、次にふくらはぎがつってばかりいたので、固定した。
足を引き釣りながらも歩いているが、固定されると余計な筋肉活動が要らず、軽くなったように感じ楽になった。
腕にも巻くようになった。
上腕二等筋(二の腕)もふくらはぎ同様、肘から指先まで脚と同じ理屈で痛んでいた。
特に手首の痛みと指の付け根の関節の痛みが激しく、肢体とはよく言ったもので連動しているんだなぁと感じた。


女性のボディメイクで矯正下着がある。
単純なものでは、ガードルやボディスーツがあるが、弛んだ肉を一定の圧力で締め、固定すると余計な筋肉や脂肪が揺れない為に体が軽くなり動き易くなる。
これとよく似ている。

病気が発症してからの年月が長くなるにつれ、疲労感による運動不足ではなく、筋弛緩と筋硬直を繰り返し続けた結果として、健常者の何倍もの運動量を消費する為に次第に筋機能が衰えてしまう。
むずむず脚症候群のような症状が寝ている間にも全身で起こっていれば、熟睡できないのも当然だし、目覚めてから直後のひどい倦怠感があるのも当然だと思う。


いま、また私は左足が痛みや動きの悪さから上手く歩けず、杖をたまに使っている。
多分、車椅子に乗れば、乗らなければ、もう動けない状態なのかもしれないが、押してくれる付添人が居なければ、歩くしかないでしょ。
電動車いすを買う?
ストレッチャー式の車椅子は魅力的。
でも、それを使ってまで動かなければいけない状態なら、そもそも寝たきりなのだから、そこまでして動かなくてもいいのではないかと考えている。

だって、寝たきりの高齢者を道具使用させてまで自力で行動しろっていう理屈なんて変じゃない?
だから私は、自分で動くことしか考えていない。

動けない時は、本当に何も出来ず、食事をベッドで食べさせて貰っている最中でも昏睡状態で、大きな声で 『ほら、口動かして!喉に詰まって死ぬよ!』 と声掛けされながら、あっと一瞬気付くものの、またふーっと意識が遠のいて、 『おーい!起きろー!』 と言われたのを覚えている。
なんか、娘がその時のことを 『お母さん、次の日起きて、昨日ありがとうね、本当ありがとうねって何回も言ってたんだよ。』 と教えてくれた。
お礼を言ったのは全然覚えていないが、自分が危機迫っていた状況と会話だけは鮮明に覚えている。


海外の相手がヨーロッパの人だったようで、ゲートルの用途が 『軍人&戦争』 のイメージだったせいか驚いたのも無理もないかと思った。
今時の日本でも自衛官ぐらいしかゲートルなんて必要ないのかもしれないし、一般人も知らないかもな。

列記とした医療用品なんだけどなぁ。
日常生活でゲートル巻いて歩いてたら気持ちが悪いし、見場が悪すぎるからね。
あとは利便性の悪さから、締める靴下とかタイツが沢山売ってるから需要がないのも仕方ない。


でも病人には効果あり。
私が見つけ、私の身体が要求したのだから、それでいい。
しかも、私は看護師になりたかったから包帯巻くのは得意だしね。

何でもいい。
とにかく痛みと疲れが少しでも楽になる効果が、薬よりもあるのならそれでいい。
自力で動けたら、それはもっといい。
たったそれだけのことだ。

で・も、主治医は体験者じゃないから奇妙な事をするといった目で見てたし、その理屈が理解出来ない上に、現代医学の最先端と第一線で研究しても対処不能という固定観念から、この合理性が理解出来ない。
こっちにしてみれば、苦肉の策なのに…。
だって私は親だから。
「動けないの、痛いの、だから出来ないの」 なんて言ってられないのが現実。
死活問題なんです。
私から親がやるべき事の執念を奪えば、子どもたちは自動的に施設保護か親権の移送になってしまう。


死ぬまで親なんて、這いつくばってでも子どもを育てるもの。
自分の何を削り、削ぎ落としてでも、育てるのが親心。
食べられない時に、自分の分を子どもに優先して食べさせてきたから。
もう食べられなくなった今では、私の食費が子どもたちに分配できて満足。

私が窮地の時、いつでも惜しみなく介護や看病してくれたこどもたちへの感謝だ。
もっと沢山小遣いをあげたい。
もっと沢山遊ばせてやりたい。
そのためにお金を稼がなければ、そう思うから目標が見つかった。

恐らく、私に子どもや親が居なければ、こんな風に力強く生きようとは思わなかったかもしれない。


ゲートル作戦万歳!


2013年1月10日木曜日

私に課せられたもの

この与えられた身体を最大限に活かす方法を探し続ける。

この与えられた精神を最大限に伸ばす方法を探し続ける。


そんな大層なことを考えようなどとしなくてもいい。
ただ、当たり前に楽しめばいい。
自分なりに動ける範囲で、考えられる範囲で、自分には何が出来るのか考え、答えが見つかれば実行すれば、それだけで十分だ。

私は考えた。
一度目標を見つけてしまったら、もう前に進むしかない。
それを諦めても、何も今までと変わらぬ日々が続くだけで可もなく不可もない毎日が待っているだけに過ぎない。
でも、その目標を達成しても、活かそうが活かすまいがどちらでも構わない。
そうなると諦めた場合、この一年何をして生きるのか?と考える。
挑戦し続け、実行出来るようになったら、新たに出来なくなる問題が浮上して、また出来ることを探す毎日。
必然的に見つけた目標に向かわざるを得なくなった訳だ。


何となく感じる。
特に慢性疲労症候群だから、線維筋痛症だから、癌だから、目標に向かう訳ではないような気がする。
誰でも、どんな立場の人でも、どんな境遇だったとしても、それは皆同じだ。

それは、一生涯 『挑戦し続ける事』 をやめてはいけない。
諦めた時、自分を甘やかした時、自分を見つめず、誤魔化し、言い訳をするようになったら、そこで道は途絶えるだろう。
人生は、これで善しということがない。
人間の欲も、これで善しということがない。
ただ諦めることに限っては、これで善しと出来てしまう。

困難や苦難を嫌い、快楽に溺れ易いのが人の性なのだから仕方がない。
それを理解できるのなら、挑戦しなければいけない。

私の潮時も、引き際もまだ来ていない。
それが私に課せられた可能性だ。



自分の描く自己理想像がまだ、そこに残されているのなら挑戦する価値があると云う事だ。

2012年12月19日水曜日

とにかく義務と責任だけで私は生きている

疲れた。


一向に上向かない中で、その恐ろしく鉛のような身体を、動かしながら成すべき事を成し、思春期や症状のバイオリズムの動きに応対し、私は自分を見つめている暇すらない毎日。

身体が休めと言って悲鳴を上げていても、私には休む暇もなく、寝込んでなど居られない。



毎日、突然飛び起きて目覚める。
すぐに睡眠薬を飲んで眠りたいくらいの疲労感。
起きてからすぐには行動できず、ベッドの上に多分3時間くらい座って居るだろう。
その間に、 『朝』 飲む薬を薬箱から出し、他の包薬を数えて用意して、やっと飲み終わるのが1時間以上経ってからだ。

前の晩からメモ用紙に明日やる事を書いてベッドサイドに置いておく。
そのキャンセル出来ない用事を片付けるのに、どれ程の気合と集中力が必要なのか。
やり終えた後は、もう腑抜け。


毎日、四六時中が腑抜けなのに、これ以上動けない。


本当に疲れた。
しかも今は師走。
今年中に済ませておかなければいけない、手配しておかなければいけない用事や予定が、誰にでも当たり前にある。
それをこなすのに、もう身体がやっと、まるで息切れ、肺気腫の喘息で本当の息切れ、筋肉が息切れ。
要するにバッテリー切れだ。


疲れた。
何もかもに疲れた。
どうしよう。
もうすぐクリスマスに、冬休みに、年末年始、お正月がやってくる。
いつも皮肉っていた冗談も言えるようなエネルギーがない。

クリスマスのことを、 「もうバカじゃないの!?クリスチャンでもないのにクリスマスやるなんて、日本人ってただお祭りしたいだけじゃん(笑)。うちは関係ないからね~」 と皮肉っていた。

バレンタイン・デーのことを、 「嗚呼もうまた日本人はバカだねぇ~。チョコレート屋の戦略にまんまと引っ掛かって儲けの種にされてるだけなのに~(笑)」 と皮肉。
ホワイト・デーのことも同じように言っていた。

初詣のことを、 「あ!罰当たりの集まり。クックック。お賽銭いっぱい積んだってあの世に逝く時に、それは何にも意味がないんだよなぁ。しかもお願いだけして御礼に行かないっていうお馬鹿さん。一番誰が儲かってるのか判ってるくせにさ~(笑)」 と嘲笑していた。

そんな事も全部、私は凡人で煩悩ならではの人間らしさで良いと思っている。
だから娘たちが小さい時に、バカバカしいと思いつつもサンタさんをやってあげていた。
次女がクリスマスの日に目覚めて、枕元にプレゼントが置いてあって、本当に体中で身体を震わせて、 『お姉ちゃーん!サンタさん来たんだ!プレゼントある!ある!』 と喜んでいた姿を今でも覚えている。

純粋な子供心の小さくて大きな夢。
やってあげて良かったと思った。
一日中、私に 『お母さん!サンタさん居るんだねー!来たよ!アタシいい子だったからなの?』 と言っていて、その度に 「そうだよ~お利口さんだったんだねぇ。良かったねー!」 と受け答えしてあげていた。



ただ、今でも娘たちの喜ぶ顔が見たいだけ。
何か当たり前のことをしてあげているに過ぎないことにも、 『わあ、お母さんありがとう!』 と言ってくれ、私は 「親だから当たり前なだけだよ、いいって~」 と俯きながら言う。

それも次第に叶わないと思う娘の寂しそうな顔を見たくない。
逆に、情けを掛けられれば掛けられるほど不甲斐なさを感じていく。
そういったことにも疲れてしまった。






思いに答えてやれない。
喧嘩する度に、私の不甲斐なかった昔の事を引き合いに出し、弱みに付け込んで来られる事が多くなった。
もう、やめて。
何も望まないで。
優しさも、助けも、何もしてくれなくていいから、痛ぶるようになじるのはやめて。

所詮、生まれて来なければ良かったとしか思えない私自身の人生なんだから、もう放っておいて。
一人でずっと、孤独と病気と誰にも頼らず、絶望の中でやっとここまで思えるようになったんだから、お願いだからそっとしておいて。
私は一人でも寂しくないから。

もうそう遠くない将来には消えてしまうんだから、静かにさせて。
喧嘩する度に、もう待たずして終わってもいいと追い詰められる。

明日は寝ていよう。
明日は何をしよう。
それだけ。

2012年12月13日木曜日

空と地上と

ぼーっと、空と同じ高さで空を眺める。
ぼーっと、空と同じ高さで自分を考える。


下をふと見下ろす。


そして、また、空と同じ高さの風景を見つめながら、考える。


その間、私に気付く人、私の後ろを通る人。
私は、ただ空と自分を見つめてた。



階段を登って行く時
階段を降りて行く時


何も変わらない。


写っている日付より、もっと前の夏に、初めて登った。
2011/04/13に、もう止めようと自分に決めて、忘れまいと写真を撮っておいた。



何処にも気持ちも身も置き所がなく、頭を冷やそうと先日行った。
あの時、自分は何を考えたのだろう。
あの時、何が自分を踏み止まらせたのだろう。
あの時、何を心に誓ったのだろう。

覚えている。
『生きるには理由は必要なく、死ぬには理由が必要だ』


もう力がなくて、登れなかった。
ただ、胸の高さまである塀に寄り掛かって、冷たい風に吹かれ、眺めていることしか出来なかった。
そこから落ちれば、何もかも終わる。
階段を降りれば、また何もかも相変わらず続く。
ぼーっと、その二つを考えていた。



引き返せば何が待っているのか。
引き返さなければ何が待っているのか。

私に聞こえた心の中の声、あの時聞こえた、その言葉
『やるべき事がまだ残っているから、お前はまだ生きていろ』
何が残されているのだろう。

死なないで。
私を必死で止める。
死なないで。

いくら止めても、生きてて欲しいと思っても、そんなにつらいなら、止める方が酷なんだと思った。
そんなに死にたければ、生きてるのが地獄なんだったら、死ねばいい。
何をどうやっても、何の役にも立たないのなら、もう何もしない。



抜け殻のような私。
生きる屍の私。
時間稼ぎをしてるだけの私。
それで時間潰しのように毎日、何か楽しいと思えるように、わざと楽しみを見つけて生きている私。

何のために・・・。


憂さ晴らしに、外へ勢いで出て行ける人はいいね。
帰ってきたくないと、家出できる人はいいね。
誰か気を紛らわしてくれる人と出かけられる人はいいね。
嫌だ、やりたくないと、放棄できる人はいいね。


私はもう何処へも行けない。
自分で死ぬ力すら、もうない。
このベッドの上から降りられないで、歩ける世界は家の中だけ。



痛みを取ってよ。
歩けるようにしてよ。
手が動くようにしてよ。
寝れば疲れがなくなるようにしてよ。

グズグズ言って、あれが嫌だ、これが嫌だ、持て余すそのエネルギーと身体を私に頂戴よ。
そうしたら、私は誰よりも頑張って生きるから。
誰よりも多くの仕事をするから。
やらなきゃいけないことも、やりたいことも、やってあげたいことも、どれだけでもやるから。
私と代わって・・・。

私が自殺した時


2006年10月25日 23:43 私は自殺した。

この写真は、退院してきた時に撮影したものだ。
一週間かけて、どうやって死ぬかずっと計画を練っていた。
誰にも気付かれず、他人にも知られずに確実に死ぬ方法を考えた。
心臓を刺すまでの記憶はある。どのような格好と方法で実行したのか覚えている。
けれど、刺した後からの記憶は一切無い。
どうやって救急隊が運んだか、どのような形で包丁が胸に刺さっていたのか、
また手術もどのような方法で行われ、何故こういう傷跡が残る結果になったのか、何も知らない。
一度は退院後、全経過を知りたいと担当医師に手紙で申し出たが守秘義務があるとの事で聞けなかった。
その後、もう生き返ってしまったのだから何も知る必要はないと思った。
もちろん、退院する時に今後の弊害や生活指導など一切のインフォームド・コンセントは受けていない。
それから既に、6年が経過している。
私はこの6年何を考え、何をしてきたのだろう。
考えてみれば、もう10年くらい経っているかのような心境だが、まだたった6年未満しか経っていない。
その間に、子供は2007年12月に退寮して戻ってきたのだから私は自分の肉体も精神も何のケアもしていない。
本当に、この6年(正確には5年4ヶ月)何も無かったかのような生活で、ただ請求される事や起こる事象に対して対応に追われるだけだった。
2008年12月29日に重症薬疹で、死ぬ寸前にまでなった。

私の精神力、忍耐力、気力を誰もが過信してはいないだろうか。
耐え切れないこのCFS、FMSの上にこんな出来事が加わり、2008年9月に中絶に見舞われ、私はその報いを一人で今も尚受けている。

いま考えるのは、既に2006年の自殺の時点で私は死んだも同じだという事だ。
あの時、その時、本当に死んでいたら、今の苦しみは無かった。
あれから、私に何か、かけがえのない喜びや生きている素晴しさを感じる出来事はあっただろうか。
残念ながら、俗世が口にしたり、思い描く、幸せも安定も、平和もなかった。
だから、私は人間らしさがなく、何事に対しても事務的で、すべてに於いて興冷めしているのだ。

誰かが嘆く、不平不満を言う、努力しない、他力本願的発想、人を羨んだり、自分の置かれた状況を有難いと思えない、そんな姿を見聞きする度、「それは平和だから言えるんだ」と感じるし、心底では「平和ボケ」と思っている。

『修羅場』?
簡単に口に出来るほど、貴方たちは修羅場なんか歩んでいない。
それは、そうやって自分を慰めて、過去の辛い体験を箱に終うための作業。そうしなければ耐え切れない思いがあるから、それも仕方ない。

死の淵を歩んだ人間にしか理解できないものがある。
それは命と引き換えにしなければならないような出来事に比べたら、すべてが戯言にしか見えなくなる。
何を切り捨ててでも、湧き上がる日常生活の不平不満は、いとも容易く乗り越えられる問題だと解かる。

私が自殺して、重症薬疹から生き返った、この5年4ヶ月で悟ったのは、そういう事だ。

『歩む道 誰が為でなく己の道
 右も左もすべて選ぶは 己なり』 2008年1月16日拝
『我抗うなかれ 世はすべて風の中
 空、無、気、意  然しの時と共に在り』 2008年10月12日拝
『究境涅槃三世諸仏依』

これが私の辿り着いた境地だ。
2012/03/05  9時0分