2012年5月31日木曜日

慢性疲労症候群、線維筋痛症の結末その2 心不全の兆候



今年の2月に救急車で運ばれた。
その症状は、慢性疲労症候群、線維筋痛症とは別だ。
昨年2011年11月頃より続く、腹痛のために年が明けてから症状が悪くなり、消化器科に受診した。

何の前触れもなく、突然みぞおちから左背部へ、まるで刀で突き刺されたような激痛が2,3日おきに起きた。
兎に角、口も利けず、左側を下にしてうずくまって、その激痛に耐えること一時間あまり。
その後は、何事もなかったかのように痛みは消えてしまうが、意識が朦朧としてそのまま眠ってしまっていた。
そんな時、声も出せず誰かを呼ぶ事も出来ず、ある日は家人が誰も居ない時だったりして、ただ耐えるだけで誤魔化していた。

そんな時、娘と談笑していた所に、その症状が襲った。
娘は、『お母さん、病院に行って診てもらったほうがいいって。絶対何かおかしいよ。』と言っていた矢先の事だった。
すぐさま、娘が救急車を呼んでくれ、かかりつけの大学病院に運ばれた。

その一週間前に消化器科に受診し、胃カメラの予約の入っていた私の電子カルテを見て、
医師は 『んー、ちょっと様子見ましょうか』 と言って、声も出せずのた打ち回る私に、現状を問診してきた。
答えられるだけ答えたが、採血をしようにも血管が細くて針が通らない。
動脈血だけ採取し、血中酸素濃度だけ検査した。
その時の私の血圧や脈拍は、自動測定器が警告音を鳴らしてばかりいた。
最高血圧76、最低血圧45、脈拍48~50、SpO2ー99、体温36.8℃だったのを覚えている。

看護師が様子を診に来るが、娘に 『お母さんって、いつも血圧低め?』 と聞いて、娘は 「そうですね」と答えていた。
しかし結局6時間もの間、救急外来のベッドに横たわっていたにも関わらず、腹部CT、腹部・胸部レントゲンを撮影しても何の手立てもされずにいた。
その後、『どうする事も今は出来ない。主治医の直接診察がないと私たちでは何も出来ない』と言われ、帰宅する事になった。


どんなにバイタルサインが異常を示しても、ブドウ糖の点滴一つ打てなかった。
私はその日も、前の日も何も食べていなかった。


それから、自宅で度々起き上がれなかったり、腹痛が起きた時、血圧と体温を測って、写真に残すようにした。
それを公開しようと思った。













写真に写っている日付を見ても、わかるように低体温と低血圧を起こしている。
こんな時は何も出来ない。
そして上半身を枕やクッションなどで支え、起こしていると楽だが、しばらくすると頭を低くしたくなる。

みぞおちの辺りに何かしこりが触れるのだが、医師はこれといった説明はしてくれない。


私が、心不全の予兆を感じたのは、最後の写真2012年5月30日だ。
この一週間くらい前から非常な倦怠感と筋肉痛があり、激しい頭痛で喘息を起こす事が解っていながらアスピリンを飲まずには耐えられなくなっていた。
アイスノンや氷嚢を至る所にやって痛みを抑えようとしても増幅するばかり、その痛みで涙が勝手に出てきて、そのまま朦朧として眠りかかっては、ハッとするが目が閉じて行った。


この血圧計には、脈拍の鼓動が表示されるようになっている。
そのサインが何度も消え、不整脈が起きているのが解る。
元気なときには、計る時に腕を空気で圧迫するのもそんなに強くはないが、こういう数字や体調の時はいつも痛いくらい圧迫し続け、測定不能のエラーサインが何度も出る。
繰り返し自動で圧迫し測定しようとする。
それでやっと計れた数値がこのように現れる。


多分、こうやって心不全が寝ている時にも起きているのだろう。
人の臓器は筋肉で出来ているのだから、自覚症状もなく、ただ病的な 『痛み』 と 『だるさ』 の果てに何故心不全が起きたのかも解明出来ず、急性心不全で死ぬのだと思った。




私は最近になって、やっと気付いた。
医師たちが手の施しようがないと言ったのは、見殺しにされているのと同じ状態なのだと。
原因も対応も何も出来ず、わからないと言われた、あの2月の救急外来の対応が物語っていたのだと、思い出し、ようやく 『正当なる見殺し』 をされた事に気が付いた。

そして、私は今毎日を精一杯生きている。
明日死んだとしても何も後悔はない。
ただ、当たり前に、ありのままの今日の自分と生き、言い残す事がないよう、やり残す事がないよう、伝えられるうちに伝え、やれるうちにやれる事をやり、当たり前の日常生活を過ごしている。
すべて、ありのままの私なりに。
不安も何も消え、「これが最後の賭けだから」と思った日から怖いものがなくなった。

何だろう、この晴々とした感覚は。
自分なりに自分らしく思いっきり、毎日を生きているような気がする。
そして今まで自分の病状をネット上で公開しようとは絶対に思わなかった私が、こうして書き残そうと考え出した。


2012年5月18日金曜日

CFS,FMSの抑うつと躁転

慢性疲労症候群と線維筋痛症には、抑うつ状態と軽躁状態が存在する。
生活の中で、年度替りや何か忙しい状況になった時、今まで眠っていた脳が目覚めだす。
それは誰しも同じなのだが、この疾患の場合、過剰反応が起きてしまう。

忙しさに着いて行くのがやっとの思いで、最初は動くのだが、一旦動き出した脳は過覚醒を起こし、止まってはくれない。
それが、軽繰状態や繰転と言われる状態だ。

どうなってしまうかというと、

  • 疲れを感じなくなる。
  • 次のスケジュールを一日中追いかける。
  • 普段の思考力や判断力、集中力の悪さが、一気になくなり聡明になる。
  • 休みたいと思いながらも、休まない。
こんな感じなのだが、過労死と言われる状況が自覚出来ていても自分では止められない。


私は、この繰転を逆に利用する。
元々、仕事柄忙しい事にも慣れていたし、段取りもきっちり取って不手際の無いように働いていたこともあって、身体で覚えているため、動ける自分に不自由を感じなくて済むからだ。


動くだけ動いて、やりこなすだけやった後、予定が入らなくなりだす。
その時は、まだ頭も身体も神経は鎮まらない。
その後だ。
いつも同じように、突然起き上がれなくなる日が来る。

「とうとう、来たな」
ただ、そう思うだけで、何も感じない。

それからは、トイレに行くのもやっと、水を注ぎに行くのもやっとになる。
歩けない、動けない、口も利けない、手も動きが悪い。寝たきりになる。


元々、食欲が無かった所へもってきて、食事を考えたり、何かを買いに行こうと考えるだけで
一気に食欲は失せて、何も食べなくなる。
そうなるまでは、一日一食は食べていたのが、何も食べなくても平気になる。
これが摂取障害と言われる特徴だ。

度重なる薬疹のせいで、ステロイドによる脂肪沈着の後、こんな経過で食事を摂らなくなって
食べても痩せて行き、更に食べなくなって痩せた身体を診察して、
医師は、『丁度いい体型と体重でいいね~』なんて言う。
私は何も言い返さない。
それを誤診と言い、ドクター・ハラスメントって言うんですよと思うだけだ。

摂取障害の体型は、異常な痩せ方をしている。
気味が悪いほど、骨が浮き出て、静脈が青白く浮き上がっている。
どこが、何が丁度いいのか理解できない。



以前は繰転の後、怖いくらいの鬱が痛みとともに襲ってきていたが、もう鬱に襲われなくなった。
それは、自分との付き合い方を会得したからだ。
病気である事を考えない。
痛みは感じても、病気である事自体をそうでないことにしてしまう。

要するに、事実を全部否定してしまえば、何も異常は起きていないことにしてしまえる。

そうして、感情は浮き沈みしなくなるのだ。
どんな耐え難い痛みに襲われても、寝返りが打てなくても、眠れなくても、薬が使えない私は
そうやって、生き延びるしかない憂鬱な夜を毎晩、何十年も味わってきたのだから、仕方が無い。


麻薬で痛みが消え、ステロイドで繰転し、当たり前のことを当たり前に出来るのなら、
本来の私の能力通りに生きられるのなら、いくらでも利用してやりたいと何度も思った。

でも、上手くしたもので、何にも使えない私はじっとして、感情的にならない方法を得た。
間違っているかもしれない。
それでも、誰にも理解できず、誰からも教えて貰えない私が考え出した
『前向きに生きる方法』なのだ。


事実を否定する。
しかし、真実は決して誤魔化さない。

2012年3月9日金曜日

生きる目標が短くなってきた

最近、生きる目標の日にちが短くなってきた。

人は、10代、20代の頃は5年、10年単位で目標を決めたり、振り返ってみたりする。
しかし、私は10年前を思い出すには少し遠く、5年前では短すぎるような気がする。
目標は、5年後や10年後に定めるのは不可能で、想像も付かず、予定も立てられない。
せいぜい長くて1ヶ月、一日を生きるので精一杯の私が立てる目標は、あと一日、後二日そんな感じだ。


無理だといって何もしなければ、それも一日。
でも、それが嫌でやり残したくない。
だから、やろうと思ったことや、やりたいと思ったことは、後から後悔したとしても構わないという思いが更に強くなった。

本当に破滅するかもしれない。
そんな大それた行動を起こす訳ではないが、生活の安定や淡々としたリズムを崩すような問題が起きても構わない。


明日終わっても悔いが無いようにしようと、してる。

そんな自分がよく解かる。

嫌だと思えば、遮断する。
電話が嫌いだから、嫌な相手からの電話を着信拒否にする。
またほとんど、音を消音にして、気が向いた時に確認して、必要だと自分が思えば掛け直す。
会いたくない、話したくない、行きたくないと思えば、断る。

随分、自分の意思に忠実になった。

別に自己中心的でわがままなことをしてるのではなく、やるべき優先順位を厳選して選択してると云った方が具体的だ。


関わりあいたくなければ、無視する。




私がいま、成すべき事は唯一つ。
娘のために親としてやらなければいけないこと。

それと、自分が研究している事を残そうと必死で書き溜めている。



あとは、何もなく、ただ当たり前のことを当たり前にやる生活だけだ。
私には今日しかない。
すべてのチャンスは今日しかない。

何もかも、一期一会。
もう、それだけで十分。それだけでいい。

そして、昨日やっと卒業式を迎えた。
あとは、4月の入学式が無事迎えられたら、一区切りだ。

自分の道は、自分で開き、掴むしかない。
私はずっと、一人でここまで生きてきた。
支えも、頼りもなく、一人でやってきた。


人は一人では生きられないとは言うが、誰も彼もが本来、自分のことで精一杯であり、人のことなんか構ってる余裕は無いものだ。
助けが本当に必要な時、崩れそうな時、私に手を差し伸べる人間は誰も居なかった。


だから、今更頼ったり、甘えたりする方法も知らなければ、不必要。

最低限の人間関係と、必要なものだけでいい。

もう、何も要らない。

2012年2月27日月曜日

慢性疲労症候群と線維筋痛症の結末

慢性疲労症候群と線維筋痛症の結末が、どうなるのか誰にも解らない。

私に解る事は、日本だけでなく諸外国の研究者が発表してきた症例をもれなく辿るということだ。


幼稚園の頃、ひどい発疹で手足が包帯でグルグルになっていた。
それから19歳を過ぎるまで、今で言うまるでエイズのような膿漏性のアレルギー湿疹が手足にできた。
何度、大学病院の皮膚科に行っても原因は不明のままだった。
アレルギーだと、はっきり判ったのは、38歳の時重症薬疹を患った時だ。
その後、次々と襲う薬疹。
アレルギーの中に、サイトメガロウィルスが原因になっているのは、この疾患患者なら知っているだろう。
人畜共通感染症で、犬、猫から自然感染しても共生している、ありふれたウィルスだ。
私の、あの膿漏性湿疹が飼っていたペットからの感染だったことが解った。

原因不明のアナフィラキシーショックも3回起こしたことがある。
3回目の時、自分で原因が解った。
それは、友達と久しぶりに夜遊びをして、夕食にシメサバを食べて起こした。
その時の体調は、とても悪く、微熱、全身倦怠感、全身筋肉痛、起き上がっていられない状態だった。
結局、抵抗力が落ちていた訳だ。
私は、食物アレルギーはない。テストをしても、シメサバは陰性なのだ。


10歳の時、突然腎盂腎炎になった。
医師は、20歳までにゆっくり治しましょうと言って、12歳の時治った。

その頃、おてんばだった私が突然起き上がれなくなり、まるで鉛のようなだるさに襲われだした。
学校では、プールは見学、朝礼では貧血で倒れる、度々保健室で休むようになった。
遅刻や早退、欠席が増えだした。


13歳の時、あまりの症状の悪さに通院すると、医師から診断されたのは、
起立性循環調節障害、心筋障害だった。
手足は紫色になって、ひどく浮腫み、ほとんど寝たきりになって、通学も出来ない時が多くなった。
しかし、見た目にはどこも悪そうに見えず、学校では『怠け病』 『情緒不安定』 『家庭環境の問題』とレッテルを貼られ、具合悪くなって保健室に行って体温を測るが、何度計っても35.0℃まで目盛が行かず、『あなたってパーフェクトに病気になれる人ね』と嘲笑された。
当時は電子体温計がなく、水銀計だったため、私がわざと操作していると疑われたのだ。
血圧を計っても(こちらも同じく電子計はない)、80-45のように、低血圧だった。

今でも私の体温は、34.7℃だ。血圧も未だに、一番悪い時で、77-49、脈拍45だ。時に最高血圧が76より上がらない時もある。

中学はほとんど行けなかった。
『登校拒否』にされ、社会的にも戸塚ヨットスクールが注目されていた時代であり、また校内暴力、家庭内暴力が問題視されていたため、私も同類にされた。


19歳の時、ひどい下腹部痛に度々襲われた。
内科で胃カメラ、単純X線撮影、エコー、CT、血液検査を受けても原因が見当たらず、大腸造影検査を受けたが異常が見つからないため、残るは婦人科の病気だと言われた。
そして、婦人科で検査を受けた結果、子宮内膜症と判明し、2年掛かって治療をした。


20歳の時、ひどいインフルエンザに罹った。
当時はまだ、ペニシリン注射が使われており、時々風邪を引いてはお尻にペニシリンを打ってもらえば、2~3日で症状は良くなっていた。
しかし、この時は良くならず、一週間経っても起き上がれず、それから今の慢性疲労症候群、線維筋痛症の症状が出揃っていた。
あちこちの内科に行き、入院しても軽快せず、『自律神経失調症』と言われた。
私は、信じなかった。
一年が過ぎた頃、休職中にたまたま母と一緒に見たテレビで、慢性疲労症候群の特集がニュースでやっていたのを見て、『次の11項目中8項目以上、思い当たる場合可能性を疑って専門医の所へ受診しましょう』とキャスターが言っていた。

私は11項目すべてに当てはまったため、母に「私、これなんじゃない?」と言って、医師会に電話をして専門医を探し、訪ねた。
一ヶ月検査入院し、診断が確定した。

その専門医は、今も私の主治医だ。


25歳の時、出産後退院してきて、ほっとしたある日、朝いつも通りに夫の弁当と朝食を作ろうと台所に立ち、顔を洗うと目に水が入ってきて、口をすすぐと、左側の口から水がこぼれた。
鏡を見に行くと、左側の顔がまったく動いていなかった。
夫に見て貰うと、動いていないと言われ急いで脳神経外科に行くと、脳のCT、MRI検査をした結果、脳異常はなく、左顔面麻痺のベル麻痺と診断された。

今でもその感覚麻痺は少し残っており、左側の無表情や口の麻痺がある。


32歳の時、突然鼻が激痛に襲われ救急で行ったら、三叉神経痛だと言われ、神経ブロック麻酔を左目の下に2回打たれた。
その後、症状が治まったかと思ったら、急に天井や家の中がグルグル回る眩暈で立っていられなくなり、吐き気と嘔吐と頭が割れそうな頭痛が起きた。
病院に行くとメニエール病だと言われ、薬が出されたが、一ヶ月くらい症状が続いた。


小さい頃から未だに相変わらず続いているのは、外耳道炎だ。
時々症状が悪化した時は、顎も動かせない、口も開けられない程、腫れ上がる。
頭痛と併せて三叉神経痛の発作も相変わらずだ。


38歳の時、メキシチールという薬剤によって、重症薬疹(DIHS:薬剤性過敏性症候群)に罹った。
その前から、度々『薬疹』はあったのを思い出した。
36歳頃、両足の膝に膿漏性発疹が出て、もしかすると飲んでいる薬の副作用かもしれないと、自分で感じ、常時飲んでいるセデスG(SG顆粒)を止めてみたら、進行が治まり、皮膚科に行って、事情を話したら、間違いないと言われた。
重症薬疹後、すべての消炎鎮痛剤にアレルギーと薬疹を起こすようになった。

薬疹:カロナール(アセトアミノフェン)、アスピリン、バファリン、リリカ、トラムセット、モーラステープ、他湿布薬、セデスG、メキシチレン、アモバン
呼吸器障害:主に喘息、アナフィラキシー:アスピリン、ロキソニン、モーラステープ等湿布薬

それ以来、脂漏性皮膚炎もずっと続き、アルコール含有の化粧水などには、ひどく反応して火傷のような赤みと痛みを引き起こし、皮膚過敏症、化学物質過敏症、機械性蕁麻疹は日常的だ。


40歳頃から、月経愁訴が出現し始め、42歳の時、はっきりと自覚した。
身体症状は、頭痛があるくらいで、つらいのは精神的症状。
不穏、イライラ、不安、混乱、焦燥感、衝動的言動、行動が目立つようになった。


過敏性腸症候群が起こると言われているが、私は便秘症の方がひどい。
30歳代から度々、胃潰瘍、十二指腸潰瘍、逆流性食堂炎、原因不明の腹膜炎を何度も起こしている。
検査をしても、ヘリコバクター・ピロリ菌は陰性、腹膜炎も原因細菌は検出されず。
嚥下障害は、油断をしていると水を一口含んでゆっくり飲み込んでも日常的に起こすほどで、呼吸困難を起こしながらむせている。

食欲はほとんどない。一日一食の楽しみと言っていた、その量も幼稚園児以下に減りつつ、今では、もう食べる事自体が疲れて、食べたくない。
食材の買い物に行って、食品を見た途端に、食欲が失せてしまうようになったのは、恐らく10年近く前からだ。
ある時には、お米を食べていて、「まるでプラスチックの粒を食べているような感覚」や、うどんなどの麺類も「まるで紐を飲み込んでいる感覚」と思ったことがあった。

流動食のような物なら何とか食べようと思ったり出来るが、最近では大好きだったおかゆも食べたくなくなった。

私は決まって、一日の始めに口にしてきたのは、ベーコンエッグとトーストかマフィンとカフェオレが長く習慣になっていたが、それも今ではカフェオレだけで十分になった。
卵とジャガイモ、コーン、お米、チョコレートが大好きだったのだが、チョコレートはほとんど食べなくなり、他の物もあまり食べたいと思わない。
私に好き嫌いの偏食は一切ない。



長過ぎる病歴を、思い出せるだけ書き出してみたが、まだ細かい部分も残っているかもしれない。
しかし、結末をどんな状態で迎えるのか、本当に研究者が発表している経過通りを辿っているこの状況だとしたら、私は死ぬのだろう。
それの原因になるのは、何かは解らない。
きっと、ありふれた菌やウィルスに抵抗できず、ある日突然、爆発的な発症をして手遅れで死ぬのは解っている。

ここまで来て関わるすべての医師から言われている言葉
『稀な重症化した状態』
『一生、治りません』
『現代医学では、手の施しようがありません』
『何もできません』

この言葉が意味する事は何なのか、私には理解できない。
手の施しようも、成す術もない、起きている異常の原因も解らない とは、どういうことなんだろう。


低体温、低血圧、徐脈、低血糖、薄れる意識、混乱、記憶がなくなる、感情が鈍くなる、何もかもが非現実的に感じる、痛みや耐え切れない倦怠感にうなされながら寝る、体の左側だけの痛みや感覚麻痺

こんな事がここ最近特に、ひどくなった。
一体、いま私の身体で何がどう起こっているのか、何も知る術がない。
すべて行き着く理由は、自律神経の乱れ。そうとしか説明されない。


いい加減決着を着けて欲しい。
死因に、癌、心不全、自殺とあるが、死因が特定できたのは何故なのか知りたい。
癌になるのを待つのか?
心不全の兆しはあるのか?
いま私は、どこを辿っているのか教えて欲しい。
何も解らないまま、こんな混乱の中で、ある日突然死ぬのは嫌だ。
結末が解っているなら、知っている事すべて教えて欲しい。

そうでないと、こどもたちも覚悟できないまま、ずっと不安の淵に立たされて行く。
そうでないと、他の家族が信じない。
そうでないと、私は死ぬに死ねず、生きるに生きられず、準備しておいてやれなくなってしまう。

前の記事に書いてあった。
『命の時計を見てみたい』

いま、その命の時計を見せて欲しい。

私が、「これが最後の賭けだから」と、ふと覚悟したのは何故なんだろう。
何かがあった訳でもなく、体調がいつも以上に悪かった訳でもなく、何気なく、そう思ったのは何故だろう。

2011年12月11日日曜日

慢性疲労症候群と犬の飼育

12月8日 突然のことだったが、仔犬を買った。
娘に先日せがまれてハムスターを飼った。
そのハムスターにかじり棒を与えてやるためにペットショップへ行ったのがきっかけだ。

ハムスターを買う前に、私が「欲しいなら、いっそ犬を飼う?」と聞いたのだが、娘は『飼う自信が無い』と言って、ハムスターにした。
その時、私はインターネットで犬を飼うメリットとデメリットを調べた。
慢性疲労症候群と犬の飼育について書かれた記事が丁度見つかり、読むとそれは必ずしも今言われている『癒し』ばかりではない、その飼育の負担の大きさが書かれていた。

私は幼い頃から様々な動物に囲まれて育ち、特に犬に関しては多くの経験を持っている。
その記事を読んで、とても納得できるほど、毎日の世話がどれ程自分の病状に負担が掛かるか書かれており、一度は諦めた。
今までにも、子供たちが動物を飼いたがっても無理だと言ってきた。


自分がろくに食事の用意も買い物も入浴も日常生活が送れないほど困難な上に、私は子育てを抱え、そして私の立場は母子家庭という悪条件、そして何より障害者介護手帳を所有するほどの状態だからだ。
いま現在は生活環境の条件が障害者介護との折り合いが中々着けられないために、支援を受けてはいない。


そんな解りきった状態であるにも関わらず、何故長生きする犬を飼ったのか?
店で娘に店員が『宜しければ抱っこできますよ』のその一言で、どうしても欲しくなってしまった事と店員のどうしても売れるものなら売りたいの気持ちに根負けしてしまったのが理由だ。

私は親であり、大人なのだから結局最終的に自分が「いいよ」とさえ言わなければ良かったのだ。


とても後悔している。
すべて解っていたのに、ひとつの命を受け容れた責任の重さ。


今日で3日目になるが、子供と動物に待ったは効かない。
最初の躾が一生を左右するのは当たり前であり、生涯その生き物が死に逝くまでの責任があるのは子供を育てて一番よく解っている。


案の定、休む間もない。
体が痛んでも、横になりたいほど疲れても、やらなければいけない。

そして最大の問題はアレルギーである、この特異体質だ。
いつ、何で異変が起こるか解らない。

そもそもハムスターを飼った理由は、私の中で自分に何が起こるのか自分の体を使って人体実験をする覚悟で決断したことだ。

主治医には本当に診療拒否をされても仕方の無いことを敢えて起こしたのだ。
それは悪意ではなく、この埒の明かない状態に嫌気が差していたのと、何より誰もが普通にしている楽しいことがしたかったからだ。

子供たちの同級生の家でも、このペットブームで犬や猫、ハムスターが飼われている。
当然、欲しがるのも無理は無い。

この記事を誰かが読めば、単なる『軽率な行動』や『エゴ』と誰もが思う。


私は前回の通院時に認知行動療法として『楽しみを見つけるために、次の受診までに書いて来て下さい』と宿題を出されていた。
何回もリストを作ろうとしたが、やりたいことを考えても不可能なことばかりで答えは解っていた。
それでも無理やり書き出してみた。
答えは、『当たり前のことを当たり前に出来るようになりたい』だった。
そんな死ぬまでにやってみたいことリストを暴露的な思いの中で書き上げたとき、憂鬱な思いは更にどん底へとなった。

それを書き上げた翌日の出来事だったのだ。
はっきりとした思考力も決断力もない状態で、流された結果なのだ。

しかし、もう迎え入れてしまった以上、覚悟するしかない。
どんなに後悔しても、だから無理で不可能だったことが解っても、命を粗末にはしない。
一般的な可愛いと思って飼ってみたものの、無理だと放棄する人が沢山増える中、それが何故いけないのかを知っている。
人間の子供と同じように生まれてきた命を粗末に扱ってはいけない。


命は尊いもの。
生まれるべくしてこの世に生まれ、望まれ、そして預けられ、そこに在るのだから。


私は何もかもが不可能な状態で生きるのが嫌だ。
だから、これは賭けだ。
自分の命と引き換えにするほど愛し、育て、生かす。




娘に命の尊さ、その命を生かすも殺すもすべて自分次第なのだということを教えたい。
それも親の役目だと思う。

本当に残念だが、癒されるよりも苦痛の方が大きい。
遊んでやっても、躾の一環。
そんな気持ちしかない。

家族がバラバラの毎日で、私のせいでやりたいことも出来ない、やって欲しいことも思うようにしてもらえないと責める娘。





自分の気持ちを考えた。
私は破滅しようとしているのかもしれない。
きっと生きる屍の何十年の末に、自分の気づかない思いの中で破滅する方向に知らず知らず向かおうとした結果なのかもしれない。

本音を言えば、もうどうなっても構わないと心のどこかで思っているのだ。

2011年11月17日木曜日

やけになりつつも

うんざりと、やけになりつつも私は思う。

いつまで待っても治りもせず、悪化する一方の生活を送ってきたが、今やれることを精一杯やろうとしてきた。

長女はとても臆病な性格から、私のことが心配で気が休まっていない。
次女は同じように気が休まらないながらも、とても前向きで私に不可能なことを自分がひとつでも実現しようと努力している。

私の望むことは、私に叶わなかった事を子供たちを代替者として叶えていくことではない。
次女のように、自分なりの道を見つけながら、『お母さんとは違って自分にはこんな可能性がある』ことを見つけて欲しいのだ。

作業の難しいことに対して、ちょっと手を貸して欲しいと思うことはあるが、手足になってまるでクローンのようになって欲しいとは決して思っていない。
それは、私自身が自力でやれる実感(達成感)を望んでいるからだ。


だから、やけになればなるほど、私は当たり前のことを当たり前にやろうとする。
世間の誰もが躊躇することなく、当然のようにやっている日常生活を目指す。

病人を過保護にしてはいけない。
生きる気力や自信をなくさせてしまうから。
ただ、無理をさせてもいけないし、放置してしまえば孤独感を味あわせる結果になる。
だから厄介なんだ。


やけになると、日常会話もどことなく刺々しくなって、些細なことで気持ちがすれ違い、傷つけ合ってしまう。
そんな時、悪い言葉を吐かないように努力する。
たとえば、「嫌い」とか「悪い」といった言葉を「好きじゃない」や「よくない」という言い方に替える。
そうやって優しい言葉で会話することによって、尖る気持ちが和らぐものだ。
言っている内容が同じだったとしても、相手に伝わる印象が柔らかい形になる。

喧嘩なんて、言葉の暴力であって、それはただ物を投げつけていないだけで心には突き刺さるものが多い。


具合の悪い時に、突き刺すような言葉や一方的な言い分を自分の思いに任せて言われると、憂鬱な気持ちや体調に追い討ちを掛ける。
結局、それでも頑張ろうと思い起こした気持ちは、一瞬で消え去り、何もかもどうでもいいと思ってしまう。
努力はいつでも一瞬で水の泡になる。


仕方ないじゃん、どうして病気になったのか解らないんだから。
仕方ないじゃん、こんなことになるなんて解らないんだから。

責めないで。
満足に親の義務を真っ当して来られなかったかもしれないけど。
私さえ、こんな結果が待っていると知っていたら、生まなかったし、結婚もしなかったし。

私は生まれてこなければ良かったと母に言ったことがある。
こんなに苦しい人生が運命なら、その運命を自分で止めたいと言った。

責められるのも、うんざり。

もっと他の友達のお母さんみたいにとか、普通の家ならとか、他と比較されると何も言えない。
だって、私はフツーじゃないから。
『今度の連休、どっか行く?』とか
『ディズニーランド行こうか?』とか
『夏休みになったら何しようか?』
そんな会話出来ないもん。


『死ぬまでにやってみたいことリスト』ねえ。
私は当たり前のことを当たり前にやれる人になりたい。
たった、それだけ。


自分のことを自分できちんと出来る人になりなさい。
私はこどもたちに小さい時から、そう教えてきた。
それは、もし病気になって、誰かが居なければ生きていけないようでは困るし、
伴侶が倒れたり、死んだり、別れたりして居なくなってしまっても、自立した精神で生きられる人になって欲しいから。


一生に一度やってみたいことは、ほとんどやった。
アメ車で娘に運転してもらって通院するのが夢だ。
くだらないかもしれなくても、つらい生活の中でも、そんなゆったりした通院がしてみたい。

儚い。

うんざり

小さい頃からアレルギー体質だった。
2009年に重症薬疹DIHSを患ってから、色々な薬に当たる率が高くなってしまった。
よくよく考えると、それ以来治療→完治→発症→治療→完治→発症で一年中薬疹を起こしている。

ある程度の原因薬剤は特定できたものの、何が原因でアレルギー反応が起きているのか不明。
稀にみる特異体質ということで、次に重症化した場合、確実に命に関わることになるそうだ。

今現在、まさに薬疹中だが治療は出来ない。
結局、毒素が抜けるまで抗アレルギー剤(これで薬疹は起きていない)と各種塗り薬で対処療法をしているだけだ。

慢性疲労症候群では、抵抗力や免疫力の低下が言われているが、風邪を引きやすい体質とは限らない。
私は小さい頃から家族も季節性風邪はあまり引かない。
インフルエンザの経験が引き金で慢性疲労症候群になった。

2年くらい前に新型インフルエンザで、もれなく家族全員リレンザを使用した。
ニュースでリレンザの副作用が問題視されたが、ふと長女が「お母さん、すっごいイライラする!」と言ってきて、私もほぼ同時期に「やっぱり?そうだよねぇ、理由もないのにイライラするよね!」という症状で服用中止になった。

その時は薬疹は起きなかったが、私はアセトアミノフェンでひどい薬疹になる。なっている最中だ。

風邪薬や一般で売られているドリンク剤の殆どにアセトアミノフェンが含まれているため使用できない。
たった5mgでひどい症状が起きるのだが、市販薬では300mgも含まれている。


こんなに薬疹で体調の浮き沈みを強いられて、訳の解らないだるさや痛み、動きにくい手足、線維筋痛症の痛み、それで憂鬱にならない訳がない。
前向きにって考えろと言われても、年がら年中対処ばっかさせられて、いい加減うんざりだ。

何も、事が先に進まず、発展的で建設的な生活が出来ず、闘病ばっかり。


「これが治ったら」
それはいつなんだろう。


こんなに通院ばっかりで、新しい症状が出て、寝込んで、動けるようになったと思ったら、また薬疹が出て、それで痛くなって、だるくなって、また寝込んで、病気に振り回されてばっかり。

そんな、うんざりする思いで10代から今まで生きてきてる想いが誰に想像できるだろうか。
見た目が元気そうだから?

もう、うんざり。
自分にも病気にも何もかも、うんざり。
精神的なものと疑っている医者は多いのだが、死にもしない、生きてるとも言えない、そんな思いをずっとさせられて、精神的にまいらない訳がない。

医者はもっと、よく考えるべきだ。
科学的に直接的な死因にはならないからと言っていないで、慢性疲労症候群や線維筋痛症の症状に永く晒されて、二次的な死因になるということを。

病気なのに特異体質で命と引き換えに薬を使う訳にいかず、苦しみに一人、毎日耐える患者の苦痛。
寝るのも座るのも歩くのも、痛みや麻痺でどうしようもないこの状態に、気の休まる日はない。


私が、この頃感じるのは、
「気が休まらない」 ことだ。
抗うつ剤も使えず、気が楽になることがない。
おまけに、アルコールも飲めなくなって、気を紛らわす手段はぼーっと天井を見ることだけ。



だから、前にがん患者が使う麻薬パッチが欲しいって言ったのに。
ようやくトラムセットという薬が承認されて、使ったら薬疹になった。
せっかく効いたのに、アセトアミノフェンに当たったから使えなくなった。
トラマドール単体では、診断名が対象外で使えないんだろう。
次こそは、と開発を待っている専門医も患者も多い中、次々と当たる私は…。


絶望
失望
時間稼ぎ

こどものために居てあげなきゃ。
老後どうなっているのかなんて、夢みたいな話で想像するのも嫌だ。
どうせ、同じことの繰り返しをしているだけだから。

それにしても、こどもたちは、いつ、どうなるのか解らない私と一緒に居て、それこそ気の休まらない日常を過ごしている。
その心理はひどい不安感だろう。
私みたいな持病持ちは家族を不幸にする。