少し前から、このブログのアクセス数が急激に増えだした事は感じていた。
アクセス数が多くなりだしたのは、ちょうど5月頃に書いた記事からだった。
ブログのアクセス数を伸ばすには、ホームページでも同じ事だが、まず検索ヒットに繋がる語句を文中に沢山収める。これが基本だ。
そして、タイトルも 『検索』 のヒット条件には欠かせない。
しかし私の場合、このブログの目的にも宣言しているように、誰かの役に立つように思っては書いていない。
その5月頃、感じたのは 「ああ、きっと慢性疲労症候群の人や線維筋痛症の人たちの体調が悪いんだな」 だった。
この疾患は、何気ない刺激に対して無意識の中で過敏状態に晒される。
いわゆるストレッサーだ。
その中でも低気圧の停滞や天候によって、目まぐるしく症状に振り回され苦しむケースが多い。
それがこの時期だったこともあって、「いま低気圧が来てるしねぇ」 と思っていた。
私がその時感じたのは、恐らく自分の訳の解らない症状に困惑して、『何でこんな状態なの?』
『どうして?』 と感じ必死で調べている人が多いのだろうだった。
でも、先日公開した記事のアクセス数が一日で100件をものの何時間で超えた事に、とても戸惑った。
自分の書いた記事を読み直し、「何でだろう?」 「どうして、こんなに一気にアクセスされたんだろう」 と考えていた。
近頃、慢性疲労症候群に於いては、疲労学会や患者会の努力もあり、厚労省が再度研究班を編成し、線維筋痛症に於いても、20年以上に及んで診察や治療をされて来られた各方面の先生方によって疲労学会の設立や研究、大会などが頻繁に行われるようになった。
それが所以で私のブログのアクセス数が、急激に伸びた訳ではないと思う。
推測でしかないが、あからさまに自分の状態を書き込んでいるからではないだろうか。
それは、ノンフィクション。
もう一つは、それだけ確定診断されず、(疑い)であったり、否定されたり、いずれも病院や医師に認められない状態で困っている人が多いことを物語っているように感じた。
誰に向けた発信でもないと言っている私から、読んで下さっている皆さんに初めて書きます。
まず、長文の多い私の記事を読んで下さってありがとうございます。
私の書く文章は、一方的で、自分の情けなさや怒り、その時の感情論が殆どだと思います。
諦めたと思えば、いや負けてたまるか、次の記事になれば、もうどうでもいい
そんな記事ばかりです。
断言的な語り口調で書いてますから、コメントのしようもない文章だと思います。
でも、これだけアクセス数が世界中から寄せられると、流石に何か役に立ててるのだろうかと思います。
自分の実態を暴露することは、自分のすべてを曝け出す事になります。
私は、こんな身体になった事を、物凄く恨んでいます。
母に
「生まれてこなきゃ良かった」
「そうしたら子どもも産まずに、娘も同じ苦しみを背負わなくて済んだ」
「どうして産んだの」
そうやって泣いて、泣いて、いま自分がこの世に居ることが恨めしくてなりません。
それでも、生きていかなければ仕方がない。
生きなければいけない理由探しなんて、もう止めました。
それは、全部苦痛から逃げるための言い訳探しにしか思えなくなったからです。
生きなければいけない理由探し=死ぬための理由探し になります。
自殺しようとしたある日、ぼーっと考えていました。
『病気じゃない人は、生きるのに理由なんて考えてないよなぁ。』
『そっかぁ、生きるのは理由は要らないけど、死ぬのは理由が要るんだ。』
そこにピンと来た時から、本当は死にたいんじゃなくて、生きたい…だけど死にたいくらいつらいって事なだけだ。そうハッキリ自覚しました。
私の記事を読むと、おぞましくなったり、怖くなったり、決して前向きになれるようなものはないと思います。
仕方がないんです。
実生活や現実に、何も、ほんと、何も、前向きになれるような出来事がないんですから。
早期段階なら治る見込みあり
という記事やPS値の軽症な人の記事をたまに見かけると、私には手に入らないものだな、と諦めるしかありません。
それでも、私の記事を読んで何か役に立っていますか?
妙な言い方ですが、私は慢性疲労症候群と線維筋痛症になって、滅多に人が経験しない 『稀』 なことを沢山経験する結果になったことは、人より多くの病気や障害を知ると思っています。
突然起こる理解出来ない問題も、勉強になったと後で気付きます。
医師たちは、皆、『何が原因なんだろう』 と困惑するばかりですが、結局辿り着く答えは、いつも慢性疲労症候群だから。線維筋痛症だから。
生涯、残念ながら解明には至らず、埒が明かないまま終わってしまうかもしれません。
それは、私を核にして、私の家族らの協力を得て、生い立ちや生育歴、様々なデータを集計し、突然変異ではなく何らかの因果関係を見つけ出さなければ解明出来ないような多分野の問題があると思うからです。
でも、それはきっと人体実験にも近いものでしょう。
本音は、それでも構わないから、何とかしてくれという思いがあります。
無理なことです。
患者さんや家族の方にとって、何か参考になっているものがあれば幸いです。
でも、誰も慢性疲労症候群にも線維筋痛症にもなって欲しくないです。
できれば、こんな病気の確定診断なんて、誰もされずに済めば良いのにと思えて仕方ありません。
社会保障や経済問題、治療の問題や必要性、それらがあって、一般社会生活も送れない人には、確定診断されることは大切な問題なのはよく解っています。
でも、自分みたいな思いや苦痛を味わう人が多くなっていくのは、嫌です。
それは、自分との折り合いを付けていく戦いの始まりだからです。
人並み以下の低いレベルでの 『ささやかな幸せ探し』 だったり、『楽しみ』 だったり。
最後に、
確定診断を受ける理由に、世間に対して 『怠け病じゃない』 証明をした後、自分しか残りません。何も、残りません。
どうぞ、確定される前に、その先に待っている問題、課題を勉強して覚悟を決めて下さい。
病気によって、自分が押し潰されます。
それは世間との戦いより、もっとつらく、長い戦いなります。
こんなメッセージしか書けなくて、すみません。
慢性疲労症候群(CFS)線維筋痛症(FMS)ケース1としての実態。日々感じる出来事の日記のようなもの このブログは白色バックライトの視覚刺激に配慮し白黒反転のデザインを施しています
2012年8月29日水曜日
2012年8月22日水曜日
慢性疲労症候群、線維筋痛症患者の姿と日常
今日Twitterのあるフォロワーさんの記事で、世界初のCFSが死亡診断名のソフィアさんの映像を観た。
そのフォロワーさんは、ベッドサイドに置いてあるペットボトルの姿は自分も同じだと呟かれていた。
私が感じたことは、恐らく重症化すればするほど、皆同じ様な姿で居るのではないだろうか?と云う事だ。
今から4年以上前になると思うが、埒の明かない病状と対処療法、それに加えて益々悪化する日常生活を何とか打開したいという思いが強くなり、米国のCDCに直接国際電話を掛け、CFSに詳しい専門医あるいは担当官と話がしたいと言った。
CDCから案内され、とあるニュージャージーの医師であり、CDCのCFS対策室勤務のドクターの電話番号を教えて貰った。
すると、詳しい事がしりたいので何か資料はあるかと尋ねられたので、ビデオレターを作成していると伝え、出来上がったら送ると話した事があった。
それから、子どもに具合悪く起き上がれない状態の自分の姿や、トイレに立つ姿などありふれた日常生活のありのままをホームビデオで撮影させた。
その最初に、パソコンで打ち込んだ英語のメッセージを撮影し、それから自分にカメラを向けて、片言ながらも自分の言葉でメッセージを話す姿を撮影した。
ベッドから起き上がる時は、布団や枕に一度顔を伏せ、その後上半身を起こそうとしても力が入らないため、まず足を両腕でベッド下に降ろさなければ起き上がれない。
歩くにもあっちの棚、こっちの壁と何処かをつたっていなければ身体を支えられない。
水を飲むにも握力がないために、陶器やガラスのような重い物は持てず、プラスチック製の持ち手のないコップを子どものように両手で掴まなければ持てない。
どこかのファストフード店で買ったストロー付きのコップをよく応用していた。
現在は、マイボトルブームのお陰でプラ製ボトルにストローを差してベッドサイドに置いている。
勿論、喉が異常に渇くのでペットボトルに水を入れて置いてあるし、あまりに辛い時にはポカリスウェットのボトルを置いている時もある。
眠る時はソフィアさんを観て、「同じなんだなぁ」 と思ったように、幅の広い伸びてしまったパイル地のヘアバンドをアイマスクの代わりにしている。
日常着のになっているパジャマ選びが非常に難しい。
軟らかい、体のどこも締め付けない綿素材の物を着ているが、そのパジャマの重みで身体がだるくなるので軽くて、薄地の物になる。
線維筋痛症も合併している私は、洋服の重みや素材にひどく痛みやだるさを感じてしまう。
また、同じ姿勢で寝ていると、自分の体重の重さで体中が痛みに襲われる。
だから、寝返りばかり打って、筋肉痛のひどい時は、体中サポーターで圧迫し、更に自分の腕や足を捻って絡ませなければ、どうすることもままならない。
椅子に座っている事も同じで、同じ姿勢で居ると、お尻や太ももの裏側に負担が掛かって痛む。
それを私は、 「イワシよ、私はねイワシと同じなのよ。」 と表現する。
イワシは、海から水揚げされた途端、自分の体重の重さで死んでしまう。その時体から鱗が剥がれ落ちてしまうのだ。
結局、寝ても起きても、落ち着いて居られない。
痛みやだるさから、どうしても前かがみの方が楽になって足も体操座りで丸まっているような状態で、背骨が曲がってしまう。
母に、 『あなたの歩く姿っておばあさんみたい』 と言われる。
会う度に、猫背や背骨の中心が曲がる姿が年々ひどくなってきていると言われる。
それでも、学生の時にバレーボールをやっていたお陰で、ストレッチを知っているので一日一度はなるべく行うようにしているのと、あぐらをかいて、足の裏を合わせて膝を床に着ける股関節体操をずっとして来たこともあって、相撲の四股の姿勢は出来る。
少し、身体の痛みが強くなってくると、そうしてトレーニングをして筋肉が固まってしまわないように自分で訓練をしている。
食事の時は、箸が上手く持てない時にはフォークやスプーンを使うが、結局は赤ちゃんのような持ち方でしか食べられない。
理由は指が上手く動かないからだ。
大抵、具合の悪い(この疾患のレベル上で)時は、まず末梢神経の働きが上手く行かず、その次に大きな筋肉、例えば太ももやふくらはぎ、二の腕、胴体などの筋肉の動きが鈍くなるから何もかも動きが悪い。
その時首がすごく痛い。顎の骨やえらの部分の筋肉も痛い。
医師はリンパ節が腫れているから、痛むんだと説明してくれた。
そんな姿をビデオに収めた。
しかし、いつまでそれを記録して、それをCDCに送って、その後どうしようかと考えた。
本当は、渡米して少しでも解決の道が開けたらと思ったが、医療費や滞在費の莫大な金銭が必要な事や軽快する見込みの薄さを考え、私は断念した。
そうこうしている内に、重症薬疹になりそれどころではなくなってしまい、杖をつかなければ歩けなくなり、終いには車椅子を娘に押して貰わなければ動けなくなってしまった。
それから暫くして、cfs nonというサイトが立ち上がり、 篠原さんがまだ支援者の方と少しづつ活動され始めた時期だった。
その後 『I Remember Me』 というビデオを知った。
勿論、YOUTUBEにも概要は紹介されていたので、少し観たが、まるで自分が撮影した姿そのものだった事がとても辛くなってしまった。
今でも撮影したビデオレターをどうしようかと悩んだり、見返す度に 『真実の姿』 を客観的に観ると泣けて泣けて仕方がない。
現実も真実も理解しているとはいっても、それでも受け入れがたいのかもしれない。
だから、今日Twitterで紹介されたソフィアさんの姿は、あまりに真実を暴露的に観たような気がして、やっぱり知りたくないと思ってしまったのが本音だ。
そして、冒頭にも書いたように、恐らくこの慢性疲労症候群の患者の誰もが同じ様な姿で、同じ様な動きの中、精神的にも同じ様な思いの中で日常生活を送っているのではないかと思ったのだ。
私は、その4年程前から首と背骨に痛みや鈍痛をずっと感じている。
主治医から神経内科に行って診て貰ってくれと言われ、行ったのだが首の骨(頚椎)の4番と5番が狭くなっていると言われた。しかし何も出来ないと言われた。
背骨は丁度、胃の後ろ側(身体の真ん中)が痛んで、押さえると痛む骨が曲がっているのが解るが、どうすることも出来ないのだろうと思い、整形外科にも神経内科にも行っていない。
このブログで、『慢性疲労症候群と線維筋痛症の結末』 と記事を書いておきながら、無責任かもしれないが、意図的に検索ヒット数を伸ばすためにセンセーショナルなタイトルを付けた気は更々ない。
ただ、自分の体験や経過を率直に書く事で、記録に残しておこうと思うだけだ。
読み手にとっては、哀れんでこんなにひどいと訴えているように感じるかもしれない。
それでも、私は自分を哀れんで悲しんで一日を終わりたくないと毎日、毎晩思っている。
でも、他の患者さんの自分を鏡に映したような姿を見たり、知るのはつらい。
うつになるなと言われても、無理な話だ。
この生きる現実は、生きる屍そのものなのだから。
2012年8月11日土曜日
やっと止まった
人並みの 『夏休み』 のライフイベントを過ごしてから、やっと動き回るのが止まった。
何ヶ月、こんなに動いてきたのだろう。
止まったきっかけは、全身の疲労感と関節痛、脱力感、そして原因不明の手の甲や指、腕に拡がる水泡様丘疹だ。
大抵、疲れが溜まりきった後に皮膚病が出てきて、だるさや痛みが強烈になる。
皮膚病と聞くと、痒みを想像するだろうが、実は炎症によって痛みの方が強い。
ひとつの症状が、痛みのきっかけを作り、気付かぬ内にひどく疲れ、動けなくなる。
そうして、考える事も動く事も私は、やっと止まる。
結局、すべての充電分のエネルギーを残り微量まで使い果たすまでは止まれないんだ。
そう思った。
頓服で試しに10回分貰った薬は、その時飲めば3日くらいは、健常時とあまり大差なく動ける。
でも効果が切れれば、元に戻ってしまう。
一般の人が飲むドリンク剤と同じような意味でしかない。
それは麻薬にも似て、飲めば覚醒し、毎日常在として使えばやがて効果がなくなり、量が増える。
量を増やせば、結局また過剰反応の後、効かなくなってしまう。
慢性疲労症候群なんて、動けるようになるまではただじっと時期を待つだけ。
動けるようになったら、動き過ぎないように制御しつつ、動き過ぎて失速するまでやり続けるだけ。
こんな事の繰り返しでしかない。
止まってしまうと、またベッドの上。
身体をどうやって収めれば楽になれるのか、ゆったりと横になれることはない。
棒人間みたいに、両脇を腕をまっすぐに固めて、足もクロスしてまっすぐにしているのが一番楽だ。
寝る時は、死体の様に胸の上に手を組んで真上を向いていると、眠りに入っていく。
起きた時は、布団がくしゃくしゃになっていて、枕もどこかに行ってしまい、一体寝ている間にどれだけ寝返りを打っていたのだろうと思う。
お陰で、一度眠るたびにベッドメイクをし直す。
寝汗びっしょり。
髪の毛くしゃくしゃ。
何をして一日終わったのか、時間ばかりが過ぎていく。
私は止まって、時計はずっと動いている。
何ヶ月、こんなに動いてきたのだろう。
止まったきっかけは、全身の疲労感と関節痛、脱力感、そして原因不明の手の甲や指、腕に拡がる水泡様丘疹だ。
大抵、疲れが溜まりきった後に皮膚病が出てきて、だるさや痛みが強烈になる。
皮膚病と聞くと、痒みを想像するだろうが、実は炎症によって痛みの方が強い。
ひとつの症状が、痛みのきっかけを作り、気付かぬ内にひどく疲れ、動けなくなる。
そうして、考える事も動く事も私は、やっと止まる。
結局、すべての充電分のエネルギーを残り微量まで使い果たすまでは止まれないんだ。
そう思った。
頓服で試しに10回分貰った薬は、その時飲めば3日くらいは、健常時とあまり大差なく動ける。
でも効果が切れれば、元に戻ってしまう。
一般の人が飲むドリンク剤と同じような意味でしかない。
それは麻薬にも似て、飲めば覚醒し、毎日常在として使えばやがて効果がなくなり、量が増える。
量を増やせば、結局また過剰反応の後、効かなくなってしまう。
慢性疲労症候群なんて、動けるようになるまではただじっと時期を待つだけ。
動けるようになったら、動き過ぎないように制御しつつ、動き過ぎて失速するまでやり続けるだけ。
こんな事の繰り返しでしかない。
止まってしまうと、またベッドの上。
身体をどうやって収めれば楽になれるのか、ゆったりと横になれることはない。
棒人間みたいに、両脇を腕をまっすぐに固めて、足もクロスしてまっすぐにしているのが一番楽だ。
寝る時は、死体の様に胸の上に手を組んで真上を向いていると、眠りに入っていく。
起きた時は、布団がくしゃくしゃになっていて、枕もどこかに行ってしまい、一体寝ている間にどれだけ寝返りを打っていたのだろうと思う。
お陰で、一度眠るたびにベッドメイクをし直す。
寝汗びっしょり。
髪の毛くしゃくしゃ。
何をして一日終わったのか、時間ばかりが過ぎていく。
私は止まって、時計はずっと動いている。
2012年8月7日火曜日
成せば成る~この世は外界のストレスありき
主治医に入院が必要だと言われて、紹介状を書いてもらい病院に要約行った。
しかし、初診で問診を受けた医師は、とてもクールでスマートな人だった。
彼は、紹介状の内容は何一つ理解出来ないと言い、私が何を必要とし、与えるべきものは何か
それを会話の中から読み取ろうとしていた。
一問一答、即答をする私に、思考力も判断力も記憶力も鈍くないと、まず悟らせた。
その次、入院に関して自分が懸念している問題を説明した。
私が 「要するに言わんとしているのは外界のストレスから開放されて、入院環境に適応してしまうって事を心配されているんですね?」 と聞くと、『その通り』。
私は、「それは絶対にない。何故なら私はこの病院に長く入院するつもりで来ていない。絶対にない。」 と言い切った。
最後に医師が私を試した。
『じゃあ、個室○○円しか空いていないから、そこにまず一週間で、どうですか?』 と提案。
最初から一週間で幾ら掛かるのか計算し、それを払ってでも入院するメリットとデメリットを即座に考える事を医師は知っていた。
勿論、私は医師が何を狙っているのか見抜いていた。
自分の正直な気持ちに向き合い、「ならば、入院しません。」 少し考えてから答えた。
その時、ピンと気付いたのが
『この世は、外界のストレスと共に在って当たり前』 その一言だった。
とっくに、解っていた事だった。
どんなに環境を変えた所で、またその変わった環境によってストレスが増え、適応せざるを得ない。
この世の中に、自分にとって何もかも居心地の良い、ストレスのない世界など何処にも在る訳がない。
みんな勘違いをしている。
別に慢性疲労症候群や線維筋痛症に限らず、病人、障害者、健常者、すべて人間は何かしらのストレスに晒されている。
そのストレスに対する感受性の強弱や適応の仕方が、人と少し違い、日常生活を送れない程の病的な心身ともに疲労や痛みを引き起こしているに過ぎない。
避けられる嫌な問題(ストレッサー)があるなら、上手く避けていけばいい。
私の場合、自分では感じない無意識のストレッサーは、光、温度、音、動き、目に見えない電磁波に対して特に過敏だ。
外出する時は、10代の頃からサングラスをしていたし、何時寒気に襲われるか解らないから上着(カーディガンやパーカー)を持っていた。
カバンには、チョコレートと目薬、リップクリーム、頭痛薬が常備されていた。
記憶が悪くなりだした20代の時、母が小さなリングメモとボールペンを持っていると良いよと教えてくれ、カレンダー式の手帳をプレゼントしてくれた。
鬱が強くなった時に、『日記を書くといいよ、後で自分がどんな事を感じていたのか読み返して思い出せるからね。そこに自分の思いを全部吐き出しなさい。』 と教えてくれ、高校生の時から何十冊も日記を書いてきた。
そして、ある日、母が日記を書くのを止めなさいと言ってきた。
思いを今度は口で吐き出せと言うのだった。
今から思えば、母が指導してきた行動療法や心理療法、認知行動療法は本当に正しかった。
負けず嫌いの私の性格を利用して、『あなたはチキショーって思った時が伸びる時だから』 とわざと皮肉を言ったり、動けないと情けなくなっている私に無理矢理、畑仕事をさせてみたり、ガーデニングを教えたりと恨まれる事も嫌われる事も何ともいとわず、私を動かした。
事の発端は、自殺未遂で左腕(上腕下部)を剃刀で切り落としたことだった。
6時間の手術の後、一ヶ月入院していたが、退院しても指は動かないかもしれないと言われた。
そこで、母がリハビリのためにガーデニングをやらせたのだ。
初めて触る土の感触、草花の香り、流す汗に無我夢中で黙々と仕事のように従う私を覚えている。
動き出した、私の心と体。とても楽しくて、夢中になって世話をし、朝5:30に起きて、花と畑の世話をし、朝食を作り、子どもたちを保育園に送り、帰ってきてまた庭仕事の続きを半年続けた。
私の腕は、切り落とした部分の神経感覚はないが、普通に動くようになった。
しかし、後に掌を切り裂いた事で、今では左の薬指と小指は縫合のために引き攣れ、神経感覚は全くない。
どれほどの体中に切り傷が残っているかと言えば、『首』と名が付く箇所にためらいでない裂傷がある。
切れていないのは、左の足首だけだ。
胴体も、まるで刀で切られたのか、切腹でもしたのかといった大きな傷がある。心臓を刺して、理由は知らないが、手術で必要性があったからなのか、そんな自分ではやっていない傷もある。
それほどまでに、死にたいくらい耐え切れなかった。
死にたかった。
でも、命や人生を見つめて、CFSとFMSにどれほど追い詰められても、私は死なないと思った。
命は、人が考えて解るものではない。
入院を断って帰り道に考えた事は、病死であれ自殺であれ 『死』 に変わりはない。
それが寿命というものだ。
死因を問題視するのは、生きている人間だけなのだ。
病死は、病気によって臓器が蝕まれ死に至る。
自殺は、精神が蝕まれ死に至る。
病死と自殺は、どちらも肉体と精神が蝕まれた結果、もはやこれまでと生命力を失って死に至るものだ。
私にとって、もはや何が理由で死に至るのかなど、どうでも良い。
生きる屍で生きてゆく事も、温存療法をしながら怯えて生きる事もうんざりした。
やりたい事ができないと嘆いて一生を過ごし、訳の解らない内に死ぬのもうんざりだ。
だから、3泊4日の家族旅行に行く事にした。
子どもたちは、私の面倒を見切れないかもしれないと不安がったが、そんな心配は要らない。
自分が楽しむ、みんなで楽しむために行きたいか、行きたくないかだけ考えればいいよ。
そう言って、片道100kmの海へ行き、犬も連れて、何倍も時間が掛かったが帰ってきた。
コテージで20年ぶりに使ったパーコレーターで煎れた珈琲は、すっごく美味しかった。
月を眺めながら、ビールを飲んで娘の青春談話を語り合ったひと時がゆったりしていた。
海水浴場で犬を 『初めての体験』 をさせたのも楽しかった。
コインシャワーの使い方を教え、犬も洗ってさっぱり、自分の犬が何処の場所でもお風呂が平気な事が解り、これは助かると経験したのも私にとって良かった。
逆に、人間の方が適応力がないことに呆れた。
たかが、食事や、風呂や、施設の設備、シャワーの使い方くらいのことで、アタフタして 頭の中で 『大変だー!』 と慌てふためいている姿を見て、こりゃ、天災が起きて漏れなくPTSDに陥るのがオチだわと感じた。
気持ちがバタバタして、それに疲れて苛々して、楽しめなくなる。
知らない世界、知らない出来事を楽しむより、計算しようとする辺りがいかにも現代病の様に、私の目には映った。
それでも、私は人並みのライフイベントを送ったのだ。
『夏休み』
帰宅してから、私の両手足は激痛に襲われ、感覚もなくサポーターだらけで締め付け、身体を丸めて、ソファーに横たわって居るしかなかった。
トイレに目を覚まし、ヨタヨタ歩き、床に置いてある物に足を引っ掛け派手に転んだ。
行きも帰りも。
私は、「手首折れたかしら?」 と思いながらもイテテと這い蹲りながら、自分の姿に笑えて仕方がなかった。
まるで、90過ぎのおばあさんになったみたい。
笑えて、笑えて。
しかし、初診で問診を受けた医師は、とてもクールでスマートな人だった。
彼は、紹介状の内容は何一つ理解出来ないと言い、私が何を必要とし、与えるべきものは何か
それを会話の中から読み取ろうとしていた。
一問一答、即答をする私に、思考力も判断力も記憶力も鈍くないと、まず悟らせた。
その次、入院に関して自分が懸念している問題を説明した。
私が 「要するに言わんとしているのは外界のストレスから開放されて、入院環境に適応してしまうって事を心配されているんですね?」 と聞くと、『その通り』。
私は、「それは絶対にない。何故なら私はこの病院に長く入院するつもりで来ていない。絶対にない。」 と言い切った。
最後に医師が私を試した。
『じゃあ、個室○○円しか空いていないから、そこにまず一週間で、どうですか?』 と提案。
最初から一週間で幾ら掛かるのか計算し、それを払ってでも入院するメリットとデメリットを即座に考える事を医師は知っていた。
勿論、私は医師が何を狙っているのか見抜いていた。
自分の正直な気持ちに向き合い、「ならば、入院しません。」 少し考えてから答えた。
その時、ピンと気付いたのが
『この世は、外界のストレスと共に在って当たり前』 その一言だった。
とっくに、解っていた事だった。
どんなに環境を変えた所で、またその変わった環境によってストレスが増え、適応せざるを得ない。
この世の中に、自分にとって何もかも居心地の良い、ストレスのない世界など何処にも在る訳がない。
みんな勘違いをしている。
別に慢性疲労症候群や線維筋痛症に限らず、病人、障害者、健常者、すべて人間は何かしらのストレスに晒されている。
そのストレスに対する感受性の強弱や適応の仕方が、人と少し違い、日常生活を送れない程の病的な心身ともに疲労や痛みを引き起こしているに過ぎない。
避けられる嫌な問題(ストレッサー)があるなら、上手く避けていけばいい。
私の場合、自分では感じない無意識のストレッサーは、光、温度、音、動き、目に見えない電磁波に対して特に過敏だ。
外出する時は、10代の頃からサングラスをしていたし、何時寒気に襲われるか解らないから上着(カーディガンやパーカー)を持っていた。
カバンには、チョコレートと目薬、リップクリーム、頭痛薬が常備されていた。
記憶が悪くなりだした20代の時、母が小さなリングメモとボールペンを持っていると良いよと教えてくれ、カレンダー式の手帳をプレゼントしてくれた。
鬱が強くなった時に、『日記を書くといいよ、後で自分がどんな事を感じていたのか読み返して思い出せるからね。そこに自分の思いを全部吐き出しなさい。』 と教えてくれ、高校生の時から何十冊も日記を書いてきた。
そして、ある日、母が日記を書くのを止めなさいと言ってきた。
思いを今度は口で吐き出せと言うのだった。
今から思えば、母が指導してきた行動療法や心理療法、認知行動療法は本当に正しかった。
負けず嫌いの私の性格を利用して、『あなたはチキショーって思った時が伸びる時だから』 とわざと皮肉を言ったり、動けないと情けなくなっている私に無理矢理、畑仕事をさせてみたり、ガーデニングを教えたりと恨まれる事も嫌われる事も何ともいとわず、私を動かした。
事の発端は、自殺未遂で左腕(上腕下部)を剃刀で切り落としたことだった。
6時間の手術の後、一ヶ月入院していたが、退院しても指は動かないかもしれないと言われた。
そこで、母がリハビリのためにガーデニングをやらせたのだ。
初めて触る土の感触、草花の香り、流す汗に無我夢中で黙々と仕事のように従う私を覚えている。
動き出した、私の心と体。とても楽しくて、夢中になって世話をし、朝5:30に起きて、花と畑の世話をし、朝食を作り、子どもたちを保育園に送り、帰ってきてまた庭仕事の続きを半年続けた。
私の腕は、切り落とした部分の神経感覚はないが、普通に動くようになった。
しかし、後に掌を切り裂いた事で、今では左の薬指と小指は縫合のために引き攣れ、神経感覚は全くない。
どれほどの体中に切り傷が残っているかと言えば、『首』と名が付く箇所にためらいでない裂傷がある。
切れていないのは、左の足首だけだ。
胴体も、まるで刀で切られたのか、切腹でもしたのかといった大きな傷がある。心臓を刺して、理由は知らないが、手術で必要性があったからなのか、そんな自分ではやっていない傷もある。
それほどまでに、死にたいくらい耐え切れなかった。
死にたかった。
でも、命や人生を見つめて、CFSとFMSにどれほど追い詰められても、私は死なないと思った。
命は、人が考えて解るものではない。
入院を断って帰り道に考えた事は、病死であれ自殺であれ 『死』 に変わりはない。
それが寿命というものだ。
死因を問題視するのは、生きている人間だけなのだ。
病死は、病気によって臓器が蝕まれ死に至る。
自殺は、精神が蝕まれ死に至る。
病死と自殺は、どちらも肉体と精神が蝕まれた結果、もはやこれまでと生命力を失って死に至るものだ。
私にとって、もはや何が理由で死に至るのかなど、どうでも良い。
生きる屍で生きてゆく事も、温存療法をしながら怯えて生きる事もうんざりした。
やりたい事ができないと嘆いて一生を過ごし、訳の解らない内に死ぬのもうんざりだ。
だから、3泊4日の家族旅行に行く事にした。
子どもたちは、私の面倒を見切れないかもしれないと不安がったが、そんな心配は要らない。
自分が楽しむ、みんなで楽しむために行きたいか、行きたくないかだけ考えればいいよ。
そう言って、片道100kmの海へ行き、犬も連れて、何倍も時間が掛かったが帰ってきた。
コテージで20年ぶりに使ったパーコレーターで煎れた珈琲は、すっごく美味しかった。
月を眺めながら、ビールを飲んで娘の青春談話を語り合ったひと時がゆったりしていた。
海水浴場で犬を 『初めての体験』 をさせたのも楽しかった。
コインシャワーの使い方を教え、犬も洗ってさっぱり、自分の犬が何処の場所でもお風呂が平気な事が解り、これは助かると経験したのも私にとって良かった。
逆に、人間の方が適応力がないことに呆れた。
たかが、食事や、風呂や、施設の設備、シャワーの使い方くらいのことで、アタフタして 頭の中で 『大変だー!』 と慌てふためいている姿を見て、こりゃ、天災が起きて漏れなくPTSDに陥るのがオチだわと感じた。
気持ちがバタバタして、それに疲れて苛々して、楽しめなくなる。
知らない世界、知らない出来事を楽しむより、計算しようとする辺りがいかにも現代病の様に、私の目には映った。
それでも、私は人並みのライフイベントを送ったのだ。
『夏休み』
帰宅してから、私の両手足は激痛に襲われ、感覚もなくサポーターだらけで締め付け、身体を丸めて、ソファーに横たわって居るしかなかった。
トイレに目を覚まし、ヨタヨタ歩き、床に置いてある物に足を引っ掛け派手に転んだ。
行きも帰りも。
私は、「手首折れたかしら?」 と思いながらもイテテと這い蹲りながら、自分の姿に笑えて仕方がなかった。
まるで、90過ぎのおばあさんになったみたい。
笑えて、笑えて。
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