私はまだ日本で慢性疲労症候群や線維筋痛症が認知されていない時から、訳の解らない症状に悩まされてきた。
そして、誤解や偏見、差別もありとあらゆる人や場所でされてきた。
よくある 『怠け病』 や 『うつ病』 という偏見は一般人だけでなく、教師や医師から散々言われ、扱われてきた。
しかし、私自身はこの病名に確証を持っていた。
それ以外に思い当たる節がまったく見当たらなかったのと、他者の評価を否定出来るだけの自分に対する客観的な観察が確証だった。
今となって思うことは、『この病名だから何?』ということだ。
例え、診断されたからといって治りもせず、症状が改善されることもなく、嫌な思うようにならない体は何も変わらない。
私が感じるのはどんな病気だったとしても関係ないし、誰かに解ってもらった所で病気が楽になる訳でもなく、逃げようがないということだ。
よく見かける記事に 『私はCFS(FMS)だから何も出来ない』とか『気持ちを解ってくれる人と分かち合いたい』 という文章があるが、それが叶ったとして何が変わるのか?
たとえば 『がん』だったら、同情されて「がんばってね」と励まされて、『がん』が治るのか?
たとえば 『うつ病』だったら、「精神的につらいんだね」と慰められて、『うつ病』が治るのか?
言いたいのは、働けないことや人間関係が築けず孤立することの言い訳に心のどこかでしていないだろうかという疑問だ。
実態的にどんな病気だったとしても、働いて食べて生きていかなければ行けないのは皆同じ。
働くというのは、何も仕事をして金を得るだけが働くということではない。
食事の用意を人の何倍時間が掛かっても自分ですることも、部屋の掃除をすることも、ちょっとした日用品の買い物をしに出掛けることも、洗濯をすることも、誰もが当たり前に生活する上でやっていることも『働く』という意味だ。
それらのことをするのは、慢性疲労症候群や線維筋痛症の患者にはとてもキツイ問題なのは確かにある。
別に、この病名の人間だけに限らず、他の全身疾患の患者にとっても大変なのは同じだ。
しかし、だからといって『出来ない』ばかりを口にして、本当に何も出来ないか?と考えると、やらねば仕方がない状況になれば、健常者とペースは違ってもやれるものだ。
病気を口実に努力しない、誰かに助けてもらうことばかり考える、依頼心の強い病人や障害者が私は大嫌いだ。
掃除も洗濯も料理もせず、『気分転換』なんて理由で遊興に興じている体力があるなら、やって当たり前の事を自分できちんとしなければいけない。
もし本当に誰も自分に手を差し延べてくれなかったら、その人は即日死んでいるだろう。
そんなに人間は柔ではない。
本当に余命あと何年という闘病生活をしている人たちと、私はDIHSで自分も生死の境に居た入院中に何人も会話をした。
携帯番号やメールアドレスも交換して、喫煙所や談話室で待ち合わせたり交流をした。
しかし、退院する人が居ても、皆の表情は「これであの人ともお別れだ」だった。
退院する人が先か、自分が先かということだ。
私は初めて、自分もその一人なのだと実感するまでには相当な時間が掛かった。
その時改めて、人はどんな理由であれ死に向かっている現実と、今日一日を精一杯生きているという本当の現実を見た。
夜中3時頃、眠れずに外でぼーっとタバコを吸いながら星を見ていた。
「不思議だよなぁ、あれだけ死にたいと思ってたのに、いざ医者に多臓器不全でこのままでは死にますって言われたら、死んでたまるかってこうやって必死に毎日投薬治療受けているんだもんなぁ」
と、ふと思ったのは今でも忘れない。
その時から絶対に死のうと考えないと心に決めた。
あまりに人間の生命力の凄さを自分の体で体験したのと、人間のエゴをまざまざと実感したからだ。
簡単に「オーバードーズしちゃうんだ」とか「何薬飲んでるの?自分はこれ」などと軽く会話をするような人間も、「こういう病気だから勘弁してね」などと予め前置きをして防衛線を張るような人間も嫌いだ。
人の色々な悲しみは深いところにある。
自分のせいでなく、誰のせいにも、何のせいにも出来ず、苦しみながら『もっと生きたい』と思いながら亡くなる人が沢山居るのだから、どんなに不自由な体でも言い訳をしながら生きる人間になってはいけない。
慢性疲労症候群と線維筋痛症には、反応性うつ症状がある。
しかし、それは決して精神科域のうつ病ではない。
まだ解明できない問題は山積みだが、脳の器質障害と全身性疼痛などの症状から憂鬱がひどくなった状態なだけだと私は思う。
はっきり断言できるのは、体は病気でも心は病気じゃないということだ。
どんなに憂鬱でも、心を本当の病気にしてしまうのは病気から逃げているからだ。
私はそう確信している。
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