2011年3月23日水曜日

慢性疲労症候群と線維筋痛症の始まり 1~2

まず始めにお断りをしておきます。
この手記は、あくまで28年以上に及ぶ私個人が辿った経過であり、誰もが同じ状態とは限りません。
また、



1. 10歳の時の異変
 私は幼少期から母や近所の人から『ゴキちょろちゃん』というあだ名を付けられるくらい、じっとしていない、おてんばで、底抜けに明るい性格だった。
しかし小学3年生の時、小学校の体育の授業で鉄棒があった。
何故だか解らないが、手に力が入らず前回りも逆上がりも出来なかった。
夏になるとプールの授業が始まり、やる気満々だったが5メートルしか泳げなかった。
学校から帰ると、母に「お母さん、だるい」とその度に言っていた。
そして私があまりに体育の授業がある毎に「だるい」と言って家の手伝いも宿題も出来ずに、ゴロンと横になっている姿を見て、母からどんな風にだるいのか質問された。
私は「スポンジあるでしょ、あれを水に浸けてそのまま水が抜けていかない感じ」と答えた。

母はこれは何かおかしいとホームドクターの所へ私を連れて行った。
医師は『腎盂炎起こしてるね、ちょっと大変だけど20歳までには治そう』と言って、投薬と通院が始まった。
その治療は小学5年生まで続いたが、完治したようだった。

しかし時折、当時では『子どもが神経性胃炎を起こすなんてありえない』、『子どもが頭痛?』と言われていたが私は胃が痛く、また慢性頭痛もあり治療を受けていた。
 私本人は何も『病気』という自覚はなく、小さい頃と同じように休み時間や学校が終わると走り回って、友だちと遊んでいたが帰宅するとぐったりしていた。

2. 12歳の時
 小学6年生になり2学期後半になった頃、週2回くらいのペースで遅刻や欠席が極端に増えだした。
しかし早退はほとんどなかったが保健室で寝かせてもらうことも度重なっていた。
保健医や担任は『情緒不安定』だと思っていた。
なぜなら私の家庭は当時、珍しくて、偏見が横行する母子家庭だったからだ。

それまでは成績も二重丸だったのが、体調が悪くなりだしてから丸や三角が多くなった。
体育の授業は相変わらず、やる気はあっても全然できず、特にマット運動や跳び箱は腕の力が入らず転び、指や腰を骨折するほど予測のつかない怪我ばかりだった。
プールはドクターストップのままで見学していた。

今でも理解できないのは、学校で集団予防接種があったのに私はいつも受けさせてもらえなかった。
担任と保健医が相談しているのを見ていたが『どうでしょうねぇ、止めといた方がいいですね』の結果論しか言われなかった。

そうしている内に膀胱炎を起こした。
医師は『貧血を起こしてるから鉄剤が必要だね』と母に説明し、一週間に一回ビタミン注射に通うよう言われた。
気持ちとは裏腹に「だるさ」、「頭痛」、「勉強がわからない」が毎日続き、家ではボーっとしていることや
飼っていた猫や犬と遊ぶことが多くなり、友だちと遊ぶ元気はなくなっていた。
特に月曜日と金曜日が起き上がれなかったことを今でも覚えている。
私は小さい頃から、夜8:00が就寝時間で朝6:00が起床時間という躾が身に付いていたので、不規則な生活はなく、唯一土曜日だけ『8時だよ!全員集合』を観るために夜9:00が就寝時間だった。
3歳年上の兄が居り、朝ごはんは兄と二人できちんと食べ、夕食の支度を母と一緒に作るのも習慣だった。

誤解を招きたくないのは、母子家庭=貧しいというイメージだ。
あまり私生活や生い立ちを語るのは病気と何ら関係のないことなので好まないが、母は何より食育を最も大切にしており、母自身が「美食小食」の人だった。

体調の話に戻るが、この頃から体重も急激に増えだした。
そして卒業式を迎えた。

次項目から『慢性疲労症候群発症の兆候』を書きます。

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