2013年1月18日金曜日

海外の慢性疲労症候群患者からのチャット

私はグーグル+でコミュニティを作っている。
そのグループメンバーから突然チャットが来て、非常に驚いた。

意外と外国では予め何度か交流を経て、チャットやメールに移行するというスタイルではなく、突然アクセスされるものだ。
しかも会話の最初から単刀直入。
相手の様子を伺ったり、ご機嫌を伺うなんてものは日本固有のスタイル。

今回も、
『私は○○からCFSと診断され、今も非常に痛みに苦しんでいる。あなたは、どの様にして痛みを取り除いているの?』
と云った具合だ。

私はちょっとした会話ならそのまま英語を打ち込むが、大体翻訳機を使いながら会話をするので時間が掛かる。

それでも今回の結果は実に画期的だったのかもしれない。

私が説明したのは、
自分は痛み止めのすべてにアレルギーがあるため氷枕で冷やすしか方法がない。
日本では薬の認証に非常に時間が掛かる為、使用することは難しく、唯一服用できるのがノイロトロピンだけです。

ここからの説明に相手は非常に驚いていた。
私は痛みに耐えるためと殺すために体中にゲートルを巻いています。
その姿はミイラかフランケンシュタインのように非常に痛々しいものです。
と、書いたら相手が 『ゲートル?ゲートルって何か?意味は知ってるの?』 とビックリし、ウィキペディアのURLを貼ってきた。

その通り。(Yes,Yes)
CFSは筋肉低下と筋肉痛を伴うため圧迫して痛みを止める。そして全身の筋肉を衰えさせるために布製のゲートルを巻いて固定し、筋肉の代わりに使用する。
医療用の包帯では伸縮性があり血流の悪化を招くため、使用できない。

あらゆるサポーターやゲートルを使用する方法を私は自分自身で発見した。
驚きましたか?

と返信すると、相手は
『私は知らなかった。そして、その方法を試すことになると思う。患者会のみんなに伝えなければいけないと強く感じた。情報をありがとう。』
と返信された。



そして改めて送ってくれたゲートルのウィキペディアを読み返した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%9A%E7%B5%86

最初に書いてある文章を紹介しよう。


脚絆(きゃはん)とは、脛の部分に巻く布や革でできた被服。ゲートルともいう。
活動時や長期歩行時に、ズボンの裾が障害物にからまったりしないよう裾を押さえ、脛を保護し、足首を圧迫しうっ血を防いで血流を良くする等の目的がある。日本では江戸時代からひろく使用され、終戦までは西洋型脚絆が軍装の一部を構成した。現在でも裾を引っ掛けることに起因する事故を防いだり、足首や足の甲への受傷を防ぐ目的で着用を義務付けている職場があり、作業服などを扱う店で販売されている。

このマーカーをした文章の通り、実にこの病気の理に叶っている物だった、そう思った。
市販されているサポーターも沢山試してきた。
でも、どれも一定の圧迫や固定で、微妙な調整が中々出来ない。
私は、洋服などの圧迫感によって全身の大激痛がものの1~2時間で起きたり、呼吸困難になった経験が何回もある。
今、流行のヒートテック素材のものは使えない。
同じく、部分的なサポーター類も中々合わなくなってしまい、サイズも骸骨のように痩せたせいか緩くて合わない。

そこで、まず左足の付け根からの痛みが随分前からあり、膝から下をもういっそのこと切り落としてくれと云うほど痛みがひどかったのでDITHで入院した時に巻かれたゲートルを巻いたのだ。

これなら強く締めたい部分と弱く覆うだけで良い部分と自分で調節が出来る。
特に膝関節と足首の痛みがひどく、次にふくらはぎがつってばかりいたので、固定した。
足を引き釣りながらも歩いているが、固定されると余計な筋肉活動が要らず、軽くなったように感じ楽になった。
腕にも巻くようになった。
上腕二等筋(二の腕)もふくらはぎ同様、肘から指先まで脚と同じ理屈で痛んでいた。
特に手首の痛みと指の付け根の関節の痛みが激しく、肢体とはよく言ったもので連動しているんだなぁと感じた。


女性のボディメイクで矯正下着がある。
単純なものでは、ガードルやボディスーツがあるが、弛んだ肉を一定の圧力で締め、固定すると余計な筋肉や脂肪が揺れない為に体が軽くなり動き易くなる。
これとよく似ている。

病気が発症してからの年月が長くなるにつれ、疲労感による運動不足ではなく、筋弛緩と筋硬直を繰り返し続けた結果として、健常者の何倍もの運動量を消費する為に次第に筋機能が衰えてしまう。
むずむず脚症候群のような症状が寝ている間にも全身で起こっていれば、熟睡できないのも当然だし、目覚めてから直後のひどい倦怠感があるのも当然だと思う。


いま、また私は左足が痛みや動きの悪さから上手く歩けず、杖をたまに使っている。
多分、車椅子に乗れば、乗らなければ、もう動けない状態なのかもしれないが、押してくれる付添人が居なければ、歩くしかないでしょ。
電動車いすを買う?
ストレッチャー式の車椅子は魅力的。
でも、それを使ってまで動かなければいけない状態なら、そもそも寝たきりなのだから、そこまでして動かなくてもいいのではないかと考えている。

だって、寝たきりの高齢者を道具使用させてまで自力で行動しろっていう理屈なんて変じゃない?
だから私は、自分で動くことしか考えていない。

動けない時は、本当に何も出来ず、食事をベッドで食べさせて貰っている最中でも昏睡状態で、大きな声で 『ほら、口動かして!喉に詰まって死ぬよ!』 と声掛けされながら、あっと一瞬気付くものの、またふーっと意識が遠のいて、 『おーい!起きろー!』 と言われたのを覚えている。
なんか、娘がその時のことを 『お母さん、次の日起きて、昨日ありがとうね、本当ありがとうねって何回も言ってたんだよ。』 と教えてくれた。
お礼を言ったのは全然覚えていないが、自分が危機迫っていた状況と会話だけは鮮明に覚えている。


海外の相手がヨーロッパの人だったようで、ゲートルの用途が 『軍人&戦争』 のイメージだったせいか驚いたのも無理もないかと思った。
今時の日本でも自衛官ぐらいしかゲートルなんて必要ないのかもしれないし、一般人も知らないかもな。

列記とした医療用品なんだけどなぁ。
日常生活でゲートル巻いて歩いてたら気持ちが悪いし、見場が悪すぎるからね。
あとは利便性の悪さから、締める靴下とかタイツが沢山売ってるから需要がないのも仕方ない。


でも病人には効果あり。
私が見つけ、私の身体が要求したのだから、それでいい。
しかも、私は看護師になりたかったから包帯巻くのは得意だしね。

何でもいい。
とにかく痛みと疲れが少しでも楽になる効果が、薬よりもあるのならそれでいい。
自力で動けたら、それはもっといい。
たったそれだけのことだ。

で・も、主治医は体験者じゃないから奇妙な事をするといった目で見てたし、その理屈が理解出来ない上に、現代医学の最先端と第一線で研究しても対処不能という固定観念から、この合理性が理解出来ない。
こっちにしてみれば、苦肉の策なのに…。
だって私は親だから。
「動けないの、痛いの、だから出来ないの」 なんて言ってられないのが現実。
死活問題なんです。
私から親がやるべき事の執念を奪えば、子どもたちは自動的に施設保護か親権の移送になってしまう。


死ぬまで親なんて、這いつくばってでも子どもを育てるもの。
自分の何を削り、削ぎ落としてでも、育てるのが親心。
食べられない時に、自分の分を子どもに優先して食べさせてきたから。
もう食べられなくなった今では、私の食費が子どもたちに分配できて満足。

私が窮地の時、いつでも惜しみなく介護や看病してくれたこどもたちへの感謝だ。
もっと沢山小遣いをあげたい。
もっと沢山遊ばせてやりたい。
そのためにお金を稼がなければ、そう思うから目標が見つかった。

恐らく、私に子どもや親が居なければ、こんな風に力強く生きようとは思わなかったかもしれない。


ゲートル作戦万歳!


2013年1月10日木曜日

私に課せられたもの

この与えられた身体を最大限に活かす方法を探し続ける。

この与えられた精神を最大限に伸ばす方法を探し続ける。


そんな大層なことを考えようなどとしなくてもいい。
ただ、当たり前に楽しめばいい。
自分なりに動ける範囲で、考えられる範囲で、自分には何が出来るのか考え、答えが見つかれば実行すれば、それだけで十分だ。

私は考えた。
一度目標を見つけてしまったら、もう前に進むしかない。
それを諦めても、何も今までと変わらぬ日々が続くだけで可もなく不可もない毎日が待っているだけに過ぎない。
でも、その目標を達成しても、活かそうが活かすまいがどちらでも構わない。
そうなると諦めた場合、この一年何をして生きるのか?と考える。
挑戦し続け、実行出来るようになったら、新たに出来なくなる問題が浮上して、また出来ることを探す毎日。
必然的に見つけた目標に向かわざるを得なくなった訳だ。


何となく感じる。
特に慢性疲労症候群だから、線維筋痛症だから、癌だから、目標に向かう訳ではないような気がする。
誰でも、どんな立場の人でも、どんな境遇だったとしても、それは皆同じだ。

それは、一生涯 『挑戦し続ける事』 をやめてはいけない。
諦めた時、自分を甘やかした時、自分を見つめず、誤魔化し、言い訳をするようになったら、そこで道は途絶えるだろう。
人生は、これで善しということがない。
人間の欲も、これで善しということがない。
ただ諦めることに限っては、これで善しと出来てしまう。

困難や苦難を嫌い、快楽に溺れ易いのが人の性なのだから仕方がない。
それを理解できるのなら、挑戦しなければいけない。

私の潮時も、引き際もまだ来ていない。
それが私に課せられた可能性だ。



自分の描く自己理想像がまだ、そこに残されているのなら挑戦する価値があると云う事だ。